軽く体を拭いてからお店に入ると、カウンター席にはすでに蒼葉が座っていた。前髪の間から覗く目が、ぼくを映してすぅっと細くなった。隣の席によじ上ると、神奈が料理をカウンターに並べた。旅行雑誌に出てきそうな、豪華な海鮮丼だ。

「わさび、野ばらちゃんの方には入れなかったけど」
「うん。そっちの方がいい」
「よかった。あ、蒼葉には入れてあるからね」
「知ってる」

 ぼそっと呟いて、蒼葉は早速海鮮丼に箸をつけた。いただきます、と手を合わせて、ぼくもまぐろを箸で掴む。神奈はカウンターの内側から、ぼくたちと向かい合うようにしてご飯を食べた。

「その水着、かわいいね。どうしたの?」
「買ってもらった」

 口をもごもごさせながら答えると、神奈は「へぇー」とにやにやしながら蒼葉を見た。

「いいなぁ、野ばらちゃんは。僕にも何か買ってほしいなぁ」
「お前に買うものなんかない」
「あっ、ひどい。おいしい料理食べさせてあげてるのは誰だよ」
「別に、おいしくはない」
「まーたそうやって意地悪言う! 野ばらちゃん、慰めて」

 えーん、と大げさに泣くふりをする。ぼくは二人を見てくすくすと笑った。

「蒼葉と神奈は仲良しだね」
「どこがだよ」

 嫌そうに吐き捨てる蒼葉と反対に、神奈は嬉しそうににっこりと笑った。

「そうだよ。ぼくら、『リリィ・ローズ』の仲間だもん」
「『リリィ・ローズ』?」
「このお店の名前だよ。花の形をしたアクセサリーを持ってる人だけが入れるんだ」

 ほら、と、神奈は首に掛けたネックレスを見せた。なるほど、確かに小さな花がついている。あ、と声を上げて、蒼葉の左手を覗き込んだ。中指に、神奈と同じ花が咲いていた。その花を見て、ぼくの頭を何かがよぎった。

 この花を、ぼくは知っている気がする。どこかで見たような気がするけど、思い出せない。ぼくの視線を避けるように、蒼葉は右手で銀の花を隠してしまった。

「そんなの、昔の話だろ。今は誰でも入れる」
「いいじゃん、青春って感じでさ。何だかんだ言って、蒼葉も指輪つけてるし」
「取るのが面倒なだけ」

 残りのご飯をかき込んで、蒼葉は逃げるように席を立った。「ごちそうさん」消え入りそうな声で呟いて、お店の扉を押して出ていく。階段を上る音が聞こえてきた。

「ほんと、無愛想なんだから」

 神奈はあきれたように息を吐いて、再び箸を動かし始めた。しゃべりっぱなしのせいで、ご飯はちっとも減っていない。

「ねぇ、蒼葉ってどんな人?」
「ん? 見ての通り嫌なやつだよ。愛想はないし、自分勝手だし。一日中部屋にこもってごろごろしてるだけの引きこもり。昔はいろんなことしてたんだけどね、いろいろあって、今は全部やめちゃったんだ」
「いろいろって?」

 お茶を飲みながら尋ねたら、神奈の表情がふっと曇った。さっきまでのふざけた雰囲気とは違う。ぼくの方を見て、ちょっとだけ、困ったように笑った。

「野ばらちゃんは、どうしてここに来たの?」
「……えっと」

 どう答えたらいいか分からなくて、ぼくは目を泳がせた。そのまま何も言えずにいると、神奈が短く息を吐いた。

「いろいろ、あるんだよ。みんな」
「神奈も?」
「僕は、何もなかったのかな。あってほしかったんだけど」

 ちょっと寂しそうに笑って、神奈はご飯を口に運んだ。その言葉の意味を聞きたかったけれど、何故かそれ以上聞いてはいけないような気がして、ぼくも同じように箸を動かした。

 いろいろ。いろいろって、何だろう。ぼくの「いろいろ」は蒼葉の「いろいろ」とは違う。ぼくがここに来た理由は、多分、「いろいろ」あったからだ。寧々のこと。テルのこと。お姉ちゃんのこと。それらは全て、「いろいろ」の一言で片づけられるような小さなことで。でも、それでも幼いぼくには大きすぎて抱えきれなくなってしまった。

 蒼葉も、そうなのかな。蒼葉はもう大きな大人だけれど、それでも抱えきれないような「いろいろ」があったのかな。

 からっぽになったお皿を片づけ終えたら、神奈が突然明るく叫んだ。

「泳ごう」