そのままぼんやりしていたら、風呂場から蒼葉が出てきた。ぼくと同じように、頭にタオルを巻いている。蒼葉の頭に手を伸ばしたら、触りやすいように腰を曲げてくれた。

「ターバンみたい」
「お前もな」

 にっと笑ったら、口から白い歯が見えた。相変わらず生気はないけれど、幾分か疲れが取れたようで、肌は十代のようにツルツルとしていた。

 ぼくたちはそのまま部屋から出て、上ったばかりの階段を下りた。一階にある、レストランのようなお店に入ると、カランカラン、とすずしげな鈴の音が鳴り響いた。

「あっ、やっと来た」

 カウンターの内側から、金髪のお兄さんがひょっこりと顔を出した。

「朝ご飯できてるよ。座って座って」

 蒼葉がカウンターの席に座った。真似して腰掛けようとしたら、椅子が高すぎてうまく座れなかった。ジャングルジムに登るようにして、やっとのことで座ったら、蒼葉がおかしそうにこっちを見ていた。

「どうしたの?」
「別に」

 頬杖をついて、ふいっと目を逸らされた。肩が小さく震えている。笑っているのだ、きっと。

 ぼくは首を動かして、店内を隅々まで見渡した。カウンターの奥には、おしゃれなお酒がたくさん並んでいる。テーブルは三つほどしかない。奥の方にはグランドピアノと小さなステージがあった。

「ここ、レストラン?」
「違う。バー」
「バーって?」
「……レストランみたいなもん」 

 説明するのが面倒になったのか、諦めたように蒼葉が言った。更に問い詰めようとしたら、ちょうどお兄さんが料理を運んできた。

「はい、どうぞ」

 そう言って差し出されたのは、サンドイッチとスクランブルエッグだった。サラダとフルーツ、それにオレンジジュースまでついている。

「いただきます」

 ぼくは手を合わせて、早速サンドイッチを手に持った。焼きたてなのか、パンは温かかった。一口食べたら、口の中でハムとチーズがとろりと溶けた。

「すっごくおいしい!」
「ほんと? 嬉しいなぁ」

 お兄さんはにこにこ笑って、蒼葉の方に身を乗り出した。

「かわいいねぇ、この子。名前は?」

 サンドイッチを食べながら、蒼葉が困ったようにぼくを見た。そういえば、まだ自分の名前を蒼葉に伝えていなかった。

「野ばら。御陵(みささぎ)野ばら」 
「野ばらちゃんかぁ。素敵な名前だね。いくつ?」
「十歳」
「うわぁ、若い! 蒼葉ったら、こんな若い子に手出して」
「違う」

 蒼葉がもごもごと口を動かす。金髪のお兄さんは、にやにやしながら蒼葉の顔を覗き込んでいる。

「お兄さんは?」
「僕? 僕はね、神奈弓弦(ゆずる)っていうんだ。よろしくね、野ばらちゃん」
「よろしく。えっと、神奈、さん」
「神奈でいいよ。みんなそう呼んでるし」

 人懐っこい笑顔を浮かべて、神奈はぼくに握手を求めた。その手を掴むと、そのまま上下に大きく揺すられた。

「で、どうしたの、この子。誘拐?」

 からかうように、神奈が尋ねる。蒼葉はサンドイッチを食べたまま何も言わない。

「違うよ。ぼくが勝手についてきたの」
「ついてきた? どうして?」
「えっと……」

 ぐっと答えに詰まった。どうしてぼくは蒼葉の手を取ったのか。どうしてぼくはここにいるのか。ぼく自身もよく分かっていない。ただ、逃げたかったんだ、あの町から。変化し始めた居場所から。

「うーん、よく分かんないけど、まぁいっか」

 神奈はそう言って、ぼくの頭をよしよし、と撫でた。

「好きなだけここにいればいいよ。海もあるし、食べ物もおいしいし……野ばらちゃんは何がしたい?」
「ぼく、泳ぎたい」
「いいねぇ! 泳ぐのは得意?」
「あんまりうまく泳げない。浮かんでるのが好きなの」

 プールの授業でも、ぼくは「泳ぎが苦手な子」のレーンに振り分けられている。全く泳げないわけじゃないけれど、前に進むスピートが異常に遅いのだ。どれだけ全力で泳いでも、後ろから来た子とぶつかってしまう。 

「ねぇ神奈、泳ぎ方教えて」
「僕? 僕より蒼葉の方がうまいよ」

 ちらりと蒼葉を見ると、ちょうどオレンジジュースを飲み干したところだった。ぼくと神奈の視線に気づいて、気だるそうに眉をひそめる。

「……俺は、泳がない」
「あれ、もう行っちゃうの?」

 そのまま席を立った蒼葉を見て、神奈が不思議そうに問いかけた。

「少し寝る。……そしたら買い物、行くから」

 ぼくに向かってそう言うと、蒼葉はお店から出ていった。また、すずしげな鈴の音がカランカランと鳴る。ゆっくり食べていいからね、と言って、神奈は蒼葉のお皿を片づけ始めた。

 蒼葉の消えた方向を見つめながら、ぼくはパイナップルを一口かじった。なんだかまだ現実感がない。眠っている時みたいに頭がふわふわしている。憧れていた海が目の前に広がっているなんて信じられない。馴染みのないこの場所で、見知らぬ人とご飯を食べているなんて、昨日の朝には想像すらできなかった。

 これから何をしよう。どうやって過ごそう。パイナップルを噛み砕いたら、甘酸っぱい果汁が、期待とともに弾けた。