車のすぐ傍には、大きな二階建ての建物があった。中はよく見えなかったけれど、一階はレストランのようだ。外にある階段を上ると、白い扉があった。蒼葉はポケットから鍵を取り出して、その扉を開いた。

「ちょっと、待ってて」

 蒼葉は何か思いついたように靴を脱いで、部屋の奥へと消えていった。ぼくがおとなしく待っていると、数秒もしないうちに蒼葉が戻ってきた。手にタオルを持っている。

「足、出して」

 ぼくはサンダルを脱いで、右足を蒼葉に差し出した。砂と海水にまみれたぼくの足を、人形の手入れをするようにタオルで拭いていく。優しいその手つきがくすぐったくて、ぼくは笑いながら体を捩った。

「おい、逃げるな」
「だって、くすぐったい」
「すぐ終わる。……ほら、反対も」

 あひゃひゃひゃひゃ、と変な笑い声を上げているうちに、蒼葉は素早く両方の足を拭き終えた。 

 部屋の中に入ると、大きな窓いっぱいに空と海が広がっていた。蒼葉が窓を開けると、まだ太陽熱を含んでいない新鮮な空気が部屋の中に入ってきた。

 ぼくは窓から身を乗り出して、青い海を見渡した。さっきよりずっと遠くまで見える。少し離れたところにある岬の上には、大きなお屋敷が建っていた。まるで絵本に出てくるお城のようだ。それ以外、人の住んでいそうな建物は何一つない。自由という言葉がよく似合う、開放的な空間だ。響くのは波の音だけ。車の音も、人の話し声も聞こえない。まるで世界にぼくと蒼葉しかいなくなったみたいだ。

「ここ、どこ?」
「秘密」

 振り返ると、蒼葉がいたずらっ子のように笑った。

「その方が、わくわくするだろ」

 蒼葉はそう言って、部屋の奥へと消えていった。ぼくは手持ち無沙汰になって、きょろきょろと部屋の中を見渡した。部屋はワンルームで、床には畳が敷いてあった。隅には敷布団が無造作に畳まれている。たくさんのCDが並べられた棚と、古いテレビ、そして小さなテーブル以外には何もない、シンプルな部屋だった。

 奥から、蒼葉がひょっこりと顔を出した。呼んでいるのだと気がついて、手招きされる前に駆け寄った。蒼葉がいたのは脱衣所だった。大きな洗面台と洗濯機が並んで置いてある。

「タオルと着替え、とりあえずここにあるもの使って」

 蒼葉はそう言って、バスタオルとTシャツを青いかごの中に置いた。

「洗濯物は洗濯機に突っ込んどいて」
「分かった」

 ぼくは大きく頷いた。なんだかお泊りに来たみたいでわくわくする。居間に戻ろうとした蒼葉は、ふと思いついたように振り向いた。

「一人で入れるか?」
「は、入れるよ!」

 むっとして怒鳴ったら、蒼葉がくっくっと喉を震わせた。からかわれたのだ。そう気づいたのは、脱衣所の扉がすでに閉まったあとだった。

 一人になったぼくは、早速服を脱いでシャワーを浴びた。体についた砂を簡単に落として、シャンプーを泡立てた。家のものとは違う、花のような甘い香りがした。小さな排水口に、砂と泡がぐるぐると渦巻いて吸い込まれていくのが見えた。

 こうして知らない香りに包まれると、昨日までのぼくが、泡とともに排水口に吸い込まれていくような気がした。寧々もいない。テルもいない。お姉ちゃんもユリさんもいない。ぼくのことを知っている人は、誰もいない。

 バスタオルで体を拭いて、用意された服をすっぽりと被った。いつの間に買ってくれたのだろう、真新しい下着も用意されている。鏡を見たら、全然知らない人が映っていた。

 濡れた長い黒髪。ぶかぶかのTシャツを着た、小さな女の子。それが自分だと気づくのに、少し時間が掛かった。寧々やテルと遊んでいた、昨日までのぼくとはどこか違う。知らないシャンプーの香り。Tシャツを嗅いだら、海のにおいがした。これがきっと、蒼葉のにおいなんだ。

 脱衣所から出ると、蒼葉が窓枠に腰掛けて海を眺めていた。男の人にしては少し長い髪が、さらさらと風にそよいでいる。ぼくに気がついて振り向くと、暗い瞳にぽっと光が灯った。

「お風呂、ありがとう」
「ああ」

 小さく頷いて、蒼葉はじっとぼくを見た。呼んでいるのだ。そう気がついて、またぼくは、手招きされる前に近寄った。蒼葉はぼくの肩に掛けてあるタオルをそっと取って、頭にぐるぐると巻きつけた。髪の毛からぽたり、ぽたりと落ちる水滴が、畳に吸い込まれてシミを作った。

 蒼葉は満足そうに、ポンポン、と軽くぼくの頭を叩くと、そのまま風呂場へと消えていった。シャワーの音が聞こえてくる。一人残されたぼくは、再び窓の外をぼんやりと眺めた。

 潮風が心地いい。絶え間なく響く波の音が、優しく心臓を揺さぶる。太陽が高く昇って、少しずつ気温が上がり始めた。シャワーで温まった体が、どんどん熱を帯びていく。