――どのくらい時間が過ぎたのだろう。

「着いたぞ」

 蒼葉に体を揺すられて、ぼくはゆっくりと目を開けた。太陽光が眩しい。目蓋をこすりながら体を起こす。目の前に広がる光景に、はっと、呼吸が奪われた。

「わぁっ……」

 そこは、海だった。

 どこまでも続く青色の水面が朝日に照らされて、きらきらと輝きを放っている。まるで宝石箱の中みたいだ。

「海、初めてか」

 ぼくは蒼葉の方を向いた。夜通し運転していたせいで、やつれた顔は更に疲れているように見えた。

「うん」
「泳ぎたい?」
「うん!」
「でも、多分死ぬ」

 ぼそぼそと蒼葉が呟いた。

「どうして?」
「深いから。……浅瀬だけにしときな」

 蒼葉は車から降りると、ぼくの方にまわりこんで、助手席のドアを開けてくれた。

 ぼくは勢いよく助手席から飛び出して、波打ち際へと走った。無数の小さな波が、
ぼくの足を求めるように何度も何度も迫ってくる。語りかけるように響く波の音。空を飛び交うかもめ。穏やかな風が潮のにおいを運んでくる。

 これが、海。想像していたよりもずっと広い。恐る恐るつま先を伸ばしたら、波が、じゃれるように足に絡みついた。触れようと手を伸ばしたら、すぐにまた遠くに去っていく。引いていく波を追いかけて、ぼくはじゃぶじゃぶと海の中に入った。膝下までしか浸かっていないのに、全身に冷たさが伝わってくる。小さな波がいくつも重なって、ぼくを転ばそうとしてくる。初めての感覚が楽しくて、ぼくは声を出して笑った。

 この楽しさを伝えたくて、浜辺の方に顔を向けた。車のボンネットにもたれて、蒼葉はじっとこっちを見ていた。おーい、と手を振ろうとしたぼくは、蒼葉の表情を見て踏みとどまった。

 蒼葉の顔は、強張っていた。何かに怯えているようにも、何かを待っているようにも見えた。ぼくは笑顔を引っ込めて、観察するように蒼葉を見つめた。どれだけ視線を送っても、蒼葉と目が合うことはなかった。蒼葉はぼくを見ていない。ぼくよりもっと遠くを見ている。視線を追うように後ろを向いたけれど、果てない海が広がっているだけだった。

 今、蒼葉は何を考えているのだろう。一体何を見ているのだろう。どうして、ぼくをここに連れてきたのだろう……。

 その時、海からやってきた風が、ぼくの背中を強く押した。「わっ」バランスを整える暇もなく、ぼくは勢いよく海の中に倒れ込んだ。海水が口に入ってしょっぱい。慌てて顔を上げたら、ゲホゲホと激しく咳き込んだ。ふらふらと立ち上がると、服が水分を含んで重くなっていた。顔にかかった水を手で拭って、ようやく目を開けると、びっくりしている蒼葉と目が合った。車のボンネットから体を離して、心配そうにこっちを見ている。

 ぼくの方に足を踏み出そうとした、その時。

「あ、あ、蒼葉ぁ!?」

 素っ頓狂な叫び声とともに、誰かが蒼葉の方に走ってきた。二十代くらいの男の人だ。アロハシャツにジーンズという、海にぴったりな服装をしていた。太陽みたいな金色の髪が眩しい。大きな買い物袋を抱えている。

「今までどこに行ってたの? っていうか、いつの間に帰ってきたの?」
「さっき」
「さっきって……こんなところで何してるの?」

 蒼葉がぼくの方を指差した。お兄さんはぼくを見ると、ひゃっと短く声を上げた。

「え、あの子、どうしたの?」
「拾った」
「えっ! 何それ、どういうこと?」

 金髪のお兄さんは、混乱したようにぼくと蒼葉を交互に見た。蒼葉は何も言わず、ぼくを見て手招きをした。ぼくはざぶざぶと海をかき分けて、蒼葉の元へと駆け寄った。

「朝飯、用意してくれ。二人分」
「ちょっと、はぐらかさないでちゃんと答えてよ」
「腹減ったんだ」

 行くぞ、とぼくに呼びかけて、蒼葉はすたすたとお兄さんから離れていく。ぼくは慌てて蒼葉のあとを追いかけた。

「ほんっとに勝手なんだから! あとで詳しく聞かせてよね!」

 後ろから、お兄さんの声が追いかけてくる。あの人は一体誰なのだろう。尋ねるように見上げたら、蒼葉とばったり目が合った。

「朝飯、食うだろ」
「……うん!」

 大きく頷くと、蒼葉がふっと目を細めた。

「その前にシャワーだな」