夏の暑さにも蝉のうるささにも気づかないうちに、家に着いていた。

 リビングのソファに座って、クーラーと扇風機で汗を乾かす。テレビをつけてみたけれど、何が映っているのかよく分からない。麦茶をぐいっと喉に流し込んでも、洗面所で顔を洗ってみても、頭は靄がかかったようにぼんやりとしていた。

 寧々が生理になった。いきなりそんなことを言われても、なんだか実感が湧かない。生理って本当に存在するんだ。保健の授業で何度も習ったけど、そんなもの、教科書の中だけの存在だと思っていた。ぼくの周りでは起きるはずないと、思い込もうとしていた。いつか来るはずだった未来が、こんなに早くやってくるなんて。

 心が、もやもやする。ああ、そうか。寧々はもう、大人なんだ。ぼくを置いて、おんなになってしまったのだ。美奈子先生が言ってた。生理になるのは、いいことだって。生理になったら、家族でお赤飯を食べて、大人になったことをお祝いするんだって。ぼくも、寧々に「おめでとう」と言うべきだったのだ。混乱が邪魔をして何も言えなかった。そう、と小さく頷くことしかできなかった。

 ぼくはソファから立ち上がって、受話器を手に取った。明日のことを、テルと相談しなければいけない。

 数回の呼び出し音のあと電話に出たのは、テル本人だった。

『野ばらか。どうした?』

 いつもと同じ明るい声に、ほっと心が安らいだ。遠くから、男子の騒ぐ声が聞こえる。どうやらゲームの真っ最中らしい。

「あのね、明日なんだけど、寧々、来れないって」
『え? 何で?』
「体調悪いんだって。だから、二人で行ってって」
『ふぅん……』

 テルはそう言うと、考え込むように黙り込んだ。後ろから聞こえる男子の声が大きくなる。沈黙のあとに聞こえたのは、予想だにしていなかった言葉だった。

『じゃ、また今度にするか』
「え?」

 びっくりして受話器を落としそうになった。どうして? テルなら絶対、「二人で行こう」って言ってくれると思ったのに。いつもなら、そう言ってくれるのに。

「ぼくは別に、二人でもいいけど」
『うーん……でも二人きりだと、いろいろ言われるんだよ』

 電話の向こうで、テルが頭を掻いているのが分かった。困った時のくせだ。

『最近、三人で遊んでてもからかわれるんだ。女子とばっか遊んでるやつって思われるのも嫌だし……。だからさ、当分遊ぶのはやめようぜ』
「そんな……」

 どうしてそんなこと言うの。当分って、いつまで?

 問い詰めようとしたら、声がうまく出なかった。心のもやもやが膨れ上がってくる。頭だけじゃなくて、胸にも霧がかかったみたいだ。外はあんなに晴れているのに。

 おーい、テル、早く来いよ。

 遠くの方から、男子の声がテルを呼んだ。『今行く』テルはそう答えると、

『じゃあな』

 そのまますぐに電話を切った。

 ツー、ツー。冷たい機械音が鳴り響く。ぼくは耳から受話器を離して、茫然とその場に立ち尽くした。

 どうしよう。明日の予定が消えてしまった。カレンダーに書かれた「プール」の文字が、からかうようにぼくを見てくる。誰もいないリビングが、妙に広く感じる。クーラーの冷気が首の後ろにあたって、全身がぶるりと震えた。

 受話器を元の位置に戻して、ぼくは二階にある自分の部屋に入った。力なくベッドに横たわると、体がずしんと重たくなった。体の中に小石が詰まったみたいだ。すごく痛い、わけじゃない。だけど無視するには辛い、そんな痛み。

 この気持ちは何だろう。真夏なのに、心に秋が来たみたいだ。木枯らしがびゅうびゅう吹いて寒い。

 こうやって変わっていくのかな。少しずつ、少しずつ。不安が音を立ててやってくる。そんなに簡単に変わらないと、ユリさんは言ってくれたけど。本当にそうなのかな。寧々は大人になってしまった。テルももう、一緒に遊んではくれない。もう、昨日までのぼくたちじゃない。

「ちょっと、野ばら?」

 部屋を覗いてきたお母さんが、心配そうに声を低くした。

「どうしたの。体調悪いの?」
「ううん」

 ぼくは首を振って、お母さんに背を向けた。今は誰ともしゃべりたくなかった。遠ざかっていく足音を聞きながら、ぼくはそっと目を閉じた。