家に帰ってご飯を食べ終えた頃には、窓の外はすっかり暗くなっていた。あれほど燃えていた空も今は黒く塗り潰されて、小さな星たちが弱々しく光っているだけだ。

 シャワーを浴び終えたぼくは、濡れた髪を拭きながらリビングへと入った。火照った体がクーラーの風に冷やされて気持ちいい。

「野ばら、ちょっと」

 ソファの上であぐらを掻いていたお姉ちゃんが、ぼくに気づいて手招きをした。
「何?」
「こないだ野ばらが見たいって言ってた試合、先生からDVDもらったの。一緒に見よう」

 お姉ちゃんはそう言って、リモコンの再生ボタンを押した。男性アイドルの顔が消えて、パッと剣道の試合が映る。ぼくはお姉ちゃんの隣に腰掛けた。

「どっちがお姉ちゃん?」
「右。名前書いてあるでしょ」

 右側の人に目をやると、なるほど、確かに剣道着に「御陵」と書いてある。試合開始の合図とともに、お姉ちゃんが竹刀をかまえた。 

 剣道着を着たお姉ちゃんは、普段とは別人みたいだ。面で顔が隠れていても、気迫がピリピリと伝わってくる。もう終わった試合なのに、ぐっと体に力が入った。

 やーっ! 大きな叫び声とともに、何度も竹刀が交わる。パン、パン、と、風船が破裂するような音が響く。お姉ちゃんの竹刀が相手の胴に綺麗に入った。審査員の白旗がさっと上がる。驚く暇もなく、お姉ちゃんはあっという間に勝ってしまった。

「やった、勝った!」
「当然。野ばらのお姉ちゃんだもん」

 えっへん、とお姉ちゃんが腰に手をあてた。

「すごいね、こういうの。お姉ちゃんはかっこいいね」
「野ばらもやってみる? 楽しいよ」
「うーん、ぼくは泳ぐ方がいいな」
「じゃあ水泳部入ればいいのに。何で入らないの?」
「だって、泳ぐのは好きだけど得意じゃないもん。それに、速く泳ぐんじゃなくて、浮かんでたいの。地面に足が着いてる時より、自由になれる気がして」
「何それ。かわいいぞぉ」

 そう言いながら、お姉ちゃんはぼくの髪をタオルでぐしゃぐしゃにした。

 七つ上のお姉ちゃんは、ぼくの自慢だ。小学生の頃から始めた剣道はあっという間に上達して、何度も大会で優勝している。男の子よりもかっこいい、大好きなお姉ちゃん。高校生になってからは忙しくなって、一緒に過ごす時間が減ったけれど、ちゃんとこうしてぼくのことを考えてくれる。

「もうすぐ夏休みだね。またテル君たちと遊ぶの?」
「うん。土曜日にプール行くんだ」
「ほんと、仲良しだね。いいね、そういうの」
「お姉ちゃん、友だちいないの?」
「し、失礼な。いるよ、いる。私なんかねぇ……あっ」
「なぁに?」
「ううん。もうちょっとしたらね」

 ぼくが首を傾げると、お姉ちゃんは楽しそうにふふ、と笑った。

 DVDの電源を切ると、またさっきのテレビ番組が映った。お姉ちゃんの大好きなアイドルが、お笑い芸人と一緒にスキューバダイビングに挑戦している。エメラルドグリーンの海が眩しい。色とりどりの魚や珊瑚も、いろんな形の貝殻も、ぼくは知らない。

「お姉ちゃんは海、行ったことある?」
「海? 野ばらが生まれる前に一回」
「ほんと? どうだった?」
「うーん……小さくてあんまり覚えてないけど、楽しかったよ。野ばらも行きたいの?」
「うん。行ってみたい」
「これからいくらでも行けるよ。野ばらは若いからね」
「お姉ちゃんだって若いよ」
「そりゃそうだけど、高校生っていろいろ大変なのよ。来年は受験生だし。こないだ高校受験が終わったと思ったのにさぁーっ。ほんと、やだやだ」

 受験ってそんなに大変なのか。小学生のぼくにはまだまだ無縁のことだ。ふぅん、と適当に相槌をうって、ぼくは再びテレビを見た。番組が終わっても、目蓋の裏には、青い海が焼きついて消えなかった。