やっと終わった。取り戻した静けさにほっとして、ぼくはみんなと同じようにプリントを眺めた。どれだけ眉間にしわを寄せても、鉛筆は全然動かない。「大人になるって?」そうやって首を傾げている女の子の絵を睨む。何でぼくにそんなこと聞くの。先生も先生だ。どうしてこんなことを考えさせるの。

 保健の授業が始まったのは、一ヶ月くらい前からだ。男女別に集められたと思ったら、いきなり裸の女の絵を見せられた。ぎゃっ、とびっくりして飛び退いたら、寧々が目をまんまるにしてぼくを見てきた。周りの女の子たちは、きゃあきゃあと甲高い声を上げながら、照れたり面白がったりしていた。

「これからみんなには月経、つまり生理というものが来て、大人の女性になる準備が始まります」

 そういえば、プールの授業を見学する女の子が多くなった。ただの体調不良だと思っていたけど、どうやらそれは違うらしい。生理になると泳ぐことができなくなるのだと、美奈子先生は説明した。毎月自分の体から血が出るなんて、考えただけでぞっとする。先生はそれを、「大人になる準備」だと言った。大人になるっていうことは、どれだけ暴力的なことなんだろう。自分が血まみれになるところを想像したら、全身の毛が逆立った。

 プリントから顔を上げて、ぼくは周りを見渡した。生乾きの髪をした女の子たちが、うーん、うーんと唸っている。

 ここにいるどれだけの女の子が「大人」になったのだろう。ませているあの子はきっともう、「女の子」から「おんな」になっているのだろう。もしかしたら、ぼくより背の低いあの子も、「おんな」になっているのかもしれない。「おんな」って、今のぼくと何が違うのだろう。生理が来たら、一体何が変わるのだろう。何が、変わってしまうのだろう。そう考えながら、ぼくはゆっくりと鉛筆を動かした。

 授業の終わり。チャイムが鳴る直前に、ようやくぼくは席を立った。

「おんなについて、ねぇ……」

 プリントに書かれた文字とぼくを見比べて、美奈子先生は首を傾げた。

「これって、つまりどういうこと?」
「えっと、第二次性徴期の体の変化とか、心の変化とか。ぼく、あんまりよく分かってないから」
「なるほどね。ちょっと漠然としてるけど、まぁいいでしょう。じゃ、頑張ってね」
 
 はぁい、と返事をして、ぼくはプリントを受け取った。そのまま席へ戻ろうとしたら、すぐに先生の声が追いかけてきた。 

「あ、野ばらちゃん」
「なぁに?」

 振り返ると、先生は視線をきょろきょろと動かしてから、言いづらそうに切り出した。

「あのね、自分のこと『ぼく』っていうの、そろそろやめたほうがいいわよ」
「えっ……どうして?」

 先生は頬に手をあてて、困ったように笑った。

「だって、野ばらちゃんは女の子なわけだし、ゆくゆくは直さないといけないじゃない。女の子なのに『ぼく』なんて言ってたら、変な子だと思われちゃうよ」

 おんな、のこ。知っているはずのその単語が、知らない言葉みたいに耳に届いた。

「……ぼくは、おんなになんてなりたくありません」

 吐き捨てるように呟いて、ぼくは早足でその場を離れた。

 心に、ちくりと針が刺さる。この痛みは何だろう。何も変わらないはずなのに、何かが変わっていくような。窓から入る風が、肩まで伸びた髪をゆらゆら揺らす。髪を濡らした水分は、空気に溶けて消えてしまった。