空が赤く染まり始めた頃、ぼくは再び「秘密の場所」を訪れた。ポケットの中に蒼葉を入れて、手には大きな花束を抱いて。燃えるような赤いバラと、雪のように白い百合。めぐさんが渡してくれたものだ。

「必ず戻ってきてね」

 店を出る時、神奈が不安そうにぼくの手を握った。

「どこかに行こうとなんて、しないでね」
「分かってる。……心配しないで」

 ぼくは安心させるように、神奈をぎゅっと抱き締めた。ぼくよりずっと年上なのに、こういうところは子供のようだ。この人を置いて、遠くに行けるわけがない。

 昨日と同じように、ぼくは崖の上から赤い海を見つめた。恨むように、恐れるように、焦がれるように、求めるように。

 赤い夕日が世界を呑み込む。波の音が静かに響く。潮のにおいが風に乗って漂ってくる。今日という日が、死んでいく。

 五年前、ここで蒼葉と夕焼けを見た。真っ赤に燃える空を、幼い瞳に焼きつけた。また二人で見たいと思った。もう一度抱き締めてほしかった。

 嵐が去ったあとのように、心は妙に凪いでいた。昨日の涙とともに、大切な何かが体から抜け出てしまったような、空虚さがあった。

 ぼくは花束を足元に置いて、ポケットから小瓶を取り出した。斜めに傾けても、逆さまにしても、やっぱり蒼葉の面影はない。だけど、浜辺の砂のようなこの遺灰は、蒼葉にぴったりだと思った。やっぱり蒼葉の体は、海でできていたのだ。

 蒼葉は、生きることを恐れていた。愛する海から離れたくなくて、死を受け入れたふりをしていた。全てを諦めようとして、でもやっぱりできなくて、生きることも死ぬこともできなくなって、孤独を抱えてもがいていた。花のように繊細で、優しすぎる人だった。

 蒼葉。蒼葉がいないと、ぼくは「ぼく」をやめられないよ。いつまでもおんなになれないよ。勝手に約束して勝手にいなくなるなんてひどいよ。

 あの頃のぼくは、ちっぽけで無力な子供だった。嬉しいとか悲しいとか、そういう大まかな感情しか持っていなかった。好きも、愛してるも、分からなかった。

 でも、一つだけ確かなことがある。

 蒼葉はぼくの世界だった。

 魚にとって、海が世界の全てであるように、ぼくにとっては蒼葉が世界の全てだった。蒼葉の広い心の中を、永遠に泳いでいたいと思った。

 小瓶の蓋を外して、遺灰を手の上に取り出した。名残惜しむ暇もなく、潮風はあっという間に蒼葉をさらっていってしまった。蒼葉が風に溶けていく。大好きな海へと、消えていく。

 ねぇ、蒼葉。聞こえてるんでしょ?

 せっかく持ってきたこの指輪、返すことができなくなったよ。おんなにしてくれるって言ったよね。約束を守ってくれなかった、君のことを一生恨むよ。

 足元の花束を胸に抱えた。甘ったるいにおいが鼻をくすぐる。君の愛と、同じ香りだ。

 潮風に溶かすように、花束を海に放り投げた。ふわりと花弁が舞い散る。赤と白が混ざり合って、透明な海を染めていく。 

 百合の花言葉は純粋。ぼくの淡いこの気持ち。そして、バラの花言葉は――

「さよなら、蒼葉」

 もうどこにもいない。何もない。あなたに向けた愛の言葉は、誰にも聞かれることなく海に沈んだ。