海が黒く染まった頃。体中の水分が流れ出てしまったのか、ようやく涙が底をついた。あんなに大声を上げて泣いたのは何年ぶりだろう。声は枯れ、両目は夕日と同じ色になってしまった。紅潮した頬。涙で濡れた服の袖。それら全てが、今が現実であることを証明して、容赦なくぼくの逃げ道を奪っていく。

 「リリィ・ローズ」の上には、かつて蒼葉と過ごした部屋があった。もう夜はどっぷり更けているというのに、明かりが灯る気配はない。

「どうぞ」

 そう言って、ユリさんは部屋の扉を開けてくれた。

 部屋の中は埃っぽくて、過去のにおいが充満していた。重々しい空気に、少し尻込みした。ユリさんが電気をつけた。パッと玄関が明るくなった。

 息を潜めながら、靴を脱いで部屋に上がった。古い記憶を頼りに居間の電気をつけると、ほつれていた思い出が確かなものになった。

 暗い海を映した大きな窓。古いテレビと小さなテーブル。棚に並んだたくさんのCD。五年前とちっとも変わっていない。まるでこの部屋だけ、時がとまっているみたいだ。

「ユリさんはここに住んでるの?」
「ううん。今はめぐ姉さんのところ」

 後ろから、ユリさんの声が返ってくる。どうして、なんて聞くまでもなかった。ここには、思い出が溢れすぎている。

 ぼくはその場に膝を着いて、本棚から一冊のファイルを取り出した。中を開くと、古いピアノの楽譜がたくさん入っていた。

「それね、蒼葉の楽譜」

 懐かしいなぁ、と言いながら、ユリさんが楽譜を覗き込んだ。

「高校生の時にね、急にピアノを弾きたいから教えてくれって言い出したの。張り切ってレッスンしたんだけど、あんまりうまくならなかったなぁ」

「……知ってる」

 楽譜のところどころにある、走り書きを指でなぞった。「なめらかに」「走らない」ユリさんに怒られて文句を言いながらピアノを弾く、蒼葉の姿が目に浮かんだ。

 一度だけ、蒼葉のピアノを聞いたことがある。酔っ払いの鼻歌のような、でたらめなリズム。砂糖菓子のような甘い旋律。「あんまりうまくないね」と笑ったら、「言うなよ」と小突かれた。子供みたいな人だった。

「今日、ここで寝ていい?」

 ユリさんは何か言いたげな顔をしたけれど、「いいよ」と頷いてくれた。

「一人で大丈夫?」
「一人になりたいの」
「……分かった」

 部屋の鍵をぼくに預けると、ユリさんは店に戻っていった。ユリさんから連絡を受けたのか、すぐに神奈が荷物を持ってきてくれた。おなかがすいたら食べるように、とサンドイッチをくれたけれど、今夜は何も食べられそうになかった。
 シャワーを浴びて、歯を磨いた。一人きりの部屋はぞっとするくらい寂しくて、遠くで響く波の音だけがやけにうるさく耳に届いた。テレビをつけてみたけれど、悲しいニュースと恋愛ドラマの区別がつかなかった。どれも滑稽な喜劇にしか思えなかった。

 数分も経たないうちに電源を切って、布団を敷いた。部屋の電気を消して、倒れるように横になった。暗闇がぼくを包む。時計の音が規則的に鳴って、時を進めていく。

 心は妙に落ち着いていた。さっきまでと違って、涙はぞっとするくらい出なかった。悲しみも怒りも、浮かんではこなかった。自分を数メートル離れたところから見ている自分がいた。枕に顔を押しつけたら、ほのかに潮の香りがした。鼻から大きく吸い込んで、布団を頭から被った。蒼葉のにおいを、体から逃したくはなかった。布団の中は温かかった。蒼葉の腕の中で眠った夜を思い出した。

 もしも、蒼葉がここにいたら。

 またぼくを抱き締めてくれるだろうか。頭を撫でてくれるだろうか。大きくなったな。そう言って、目尻をくしゃくしゃにして笑うだろうか。そんな無意味なことを、何度も何度も考えた。

 現実から逃げるように瞳を閉じた。もう五年も経ったというのに、まだぼくは逃げようとしている。全く成長していない、自分の未熟さにあきれてしまう。

 でも、こんなぼくでも、きっと蒼葉は許すのだろう。しょうがないな。そうやって肩を落として、目一杯ぼくを甘やかすのだろう。

 目蓋の裏に、ぼんやりと蒼葉が浮かび上がった。五年前より体つきはがっしりしている。髪は少し短くなった。一粒の悲しみもない笑顔で両腕を広げて、声を出さずにぼくを呼ぶ。

 そしたらぼくは走り出すのだ。抱えきれない喜びを溢れさせて、思いきり蒼葉の胸に飛び込んでいく。

 そんな、くだらない夢を見た。