やがて、太陽が空と海を赤く染めた。波の音が、どこか哀愁を含んだ響きに変わり始めている。かもめが夕日に吸い込まれていく。気温がどんどん下がっていく。冷たい潮風が、ぼくの体温を奪っていく。ぼくは立ち上がって、沈みゆく夕日をじっと睨んだ。
蒼葉はまだ来なかった。
両手をきつく握り締める。血が滲むくらい唇を噛む。そうやって、溢れそうになる想いを、喉の奥に閉じ込めた。こんなに早く結論を出してしまいたくなかった。
だから、蒼葉は「まだ」来ない。
「もう」なんて言葉を使いたくない。
最悪の未来を、確定事項にしたくはない。
「野ばらちゃん」
背後から、タイムリミットを告げる声が聞こえた。優しくて、甘さを含んだまぁるい声。でもそれは、ぼくの望んだ声じゃなかった。
「行こう。日が暮れる」
「……まだ、もうちょっと」
神奈の方を見ずに答えた。数時間ぶりに出した声は、少女のように弱々しかった。
「もしかしたら、海面に浮き上がってくるかもしれない」
「……あいつがそんな間抜けなところ、見せると思う?」
ぼくは何も言えずに俯いた。足元に広がる海は、ただ穏やかにそこにあるだけだ。黒い髪。細い腕。長い足。優しい瞳。どれだけ目を凝らしても、ほしいものは何一つ浮かんでこない。
認めたくなんてなかった。理解なんてしたくもない。受け入れることが大人だというのなら、大人になんて、なりたくない。
でも、それでも。
ぼくは認めなければいけないのだ。中学を卒業してしまったから。大人が、始まってしまったから。そう、あの人が言ったから。
本当は、全部分かっていた。神奈が迎えにきた時から、蒼葉には会えないと予感していた。神奈の車は、かつて蒼葉のものだった。黒いコートは、神奈よりも蒼葉によく似合う。
――ああ、そうか。
きつく結んでいた拳をほどいた。唇の隙間から、生ぬるい息が短く漏れた。大切に抱き締めていた緊張が、ぽろぽろとこぼれ落ちていくのを感じた。
いってしまったのだ。ぼくの手の届かないところへ。愛する世界の果てへ。深い深い、海の底へ。
「……蒼葉、何て言ってた?」
「俺のことは忘れろって」
「ずるいやつ」
恨むように吐き捨てた。もっと罵倒してやりたかったけど、それ以上はもう、言葉が出てこなかった。浴槽の栓を外したように、頭の先からつま先まで、するすると生気が抜け出ていく。蒼葉はもう来ない。そう認めてしまったら、全てがどうでもよくなって、この地面に二本足で立っていることさえも無意味に思えた。
「ねぇ、野ばら」
真っ赤な夕焼けを隠すように、神奈がぼくの前に立った。
「僕じゃだめ?」
ぼくはぼんやりと神奈を見上げた。
「僕だって一応男だし、君の望みを叶えてあげられるよ」
その表情は真剣だった。困ったように下がった眉。心配そうに細められた目。その一つ一つが、彼の優しさをぼくに伝えている。昔から変わらない、大好きな人。愛しい人。
「ありがとう。……でも、だめ」
ぼくは静かに首を振った。
「蒼葉と約束したんだ。それに……もしそうなったら、神奈を傷つけてしまうから」
「僕を?」
「……ぼくは蒼葉じゃないから。神奈の一番にはなれない」
息を呑む音が聞こえた。ぼくは逃げるように目を伏せた。
「……そうだね」
泣き出しそうな声だった。神奈はぼくの肩に額をあてて、脱力するように息を吐いた。微かに、震えていた。
「ありがとう。ごめんね……」
「ううん……連れてきてくれて、ありがとう」
壊れないようにそっと、神奈の体を包んだ。一番近くで蒼葉を見てきたのは神奈だ。いくら強く想ったって、この人の時間の重みには勝てっこない。
神奈はどんな想いでぼくを迎えにきたのだろう。ぼくと蒼葉が会えないことを、自分のせいだとでも思っているのだろうか。罪悪感を抱いているのだろうか。この人は昔から、笑顔の裏に悲しみを隠して、無茶ばかりする。危なっかしくて、見ていられない。
ごめん、と鼻をすすって、神奈が顔を上げた。へたくそな笑顔を浮かべて、ぼくからそっと離れた。
「行こうか」
そう言って、神奈は歩き出した。うん、と小さく頷いて、ぼくも夕日に背を向けた。
蒼葉はまだ来なかった。
両手をきつく握り締める。血が滲むくらい唇を噛む。そうやって、溢れそうになる想いを、喉の奥に閉じ込めた。こんなに早く結論を出してしまいたくなかった。
だから、蒼葉は「まだ」来ない。
「もう」なんて言葉を使いたくない。
最悪の未来を、確定事項にしたくはない。
「野ばらちゃん」
背後から、タイムリミットを告げる声が聞こえた。優しくて、甘さを含んだまぁるい声。でもそれは、ぼくの望んだ声じゃなかった。
「行こう。日が暮れる」
「……まだ、もうちょっと」
神奈の方を見ずに答えた。数時間ぶりに出した声は、少女のように弱々しかった。
「もしかしたら、海面に浮き上がってくるかもしれない」
「……あいつがそんな間抜けなところ、見せると思う?」
ぼくは何も言えずに俯いた。足元に広がる海は、ただ穏やかにそこにあるだけだ。黒い髪。細い腕。長い足。優しい瞳。どれだけ目を凝らしても、ほしいものは何一つ浮かんでこない。
認めたくなんてなかった。理解なんてしたくもない。受け入れることが大人だというのなら、大人になんて、なりたくない。
でも、それでも。
ぼくは認めなければいけないのだ。中学を卒業してしまったから。大人が、始まってしまったから。そう、あの人が言ったから。
本当は、全部分かっていた。神奈が迎えにきた時から、蒼葉には会えないと予感していた。神奈の車は、かつて蒼葉のものだった。黒いコートは、神奈よりも蒼葉によく似合う。
――ああ、そうか。
きつく結んでいた拳をほどいた。唇の隙間から、生ぬるい息が短く漏れた。大切に抱き締めていた緊張が、ぽろぽろとこぼれ落ちていくのを感じた。
いってしまったのだ。ぼくの手の届かないところへ。愛する世界の果てへ。深い深い、海の底へ。
「……蒼葉、何て言ってた?」
「俺のことは忘れろって」
「ずるいやつ」
恨むように吐き捨てた。もっと罵倒してやりたかったけど、それ以上はもう、言葉が出てこなかった。浴槽の栓を外したように、頭の先からつま先まで、するすると生気が抜け出ていく。蒼葉はもう来ない。そう認めてしまったら、全てがどうでもよくなって、この地面に二本足で立っていることさえも無意味に思えた。
「ねぇ、野ばら」
真っ赤な夕焼けを隠すように、神奈がぼくの前に立った。
「僕じゃだめ?」
ぼくはぼんやりと神奈を見上げた。
「僕だって一応男だし、君の望みを叶えてあげられるよ」
その表情は真剣だった。困ったように下がった眉。心配そうに細められた目。その一つ一つが、彼の優しさをぼくに伝えている。昔から変わらない、大好きな人。愛しい人。
「ありがとう。……でも、だめ」
ぼくは静かに首を振った。
「蒼葉と約束したんだ。それに……もしそうなったら、神奈を傷つけてしまうから」
「僕を?」
「……ぼくは蒼葉じゃないから。神奈の一番にはなれない」
息を呑む音が聞こえた。ぼくは逃げるように目を伏せた。
「……そうだね」
泣き出しそうな声だった。神奈はぼくの肩に額をあてて、脱力するように息を吐いた。微かに、震えていた。
「ありがとう。ごめんね……」
「ううん……連れてきてくれて、ありがとう」
壊れないようにそっと、神奈の体を包んだ。一番近くで蒼葉を見てきたのは神奈だ。いくら強く想ったって、この人の時間の重みには勝てっこない。
神奈はどんな想いでぼくを迎えにきたのだろう。ぼくと蒼葉が会えないことを、自分のせいだとでも思っているのだろうか。罪悪感を抱いているのだろうか。この人は昔から、笑顔の裏に悲しみを隠して、無茶ばかりする。危なっかしくて、見ていられない。
ごめん、と鼻をすすって、神奈が顔を上げた。へたくそな笑顔を浮かべて、ぼくからそっと離れた。
「行こうか」
そう言って、神奈は歩き出した。うん、と小さく頷いて、ぼくも夕日に背を向けた。