夏休みが終わって九月に入っても、秋とはとても呼べないじりじりと強い日差しが差す暑い日が続いていた。外からは蝉の声さえ聞こえて来る。昔は九月にもなれば肌寒い気候に秋を感じたような気もしつつ、そこまではっきりとした記憶もなかった。
 新学期初日の朝の教室で、男の子たちはシャツでパタパタあおいでいる。女の子たちは座ったままスカートを揺らして中に空気を送り込んでいる。
「おはよう!久しぶり!」
「久しぶり、美玖」
 いつものように美玖は席に座る私の肩を叩いた。その感触を懐かしく思った。
 夏休みの間、美玖から遊びに誘われることもあったが、部活が忙しいことにして断っていた。だから顔を合わせるのは数少ない登校日以来だった。
 美玖はその時と変わらない愛嬌のある笑顔で私を見つめる。空調のついていない教室が暑いのか、美玖は髪を耳にかけて首筋を手で仰いだ。耳の下に細い汗の線が走っていた。
 いつもはすぐに一度自分の席に向かう美玖は、いつもと違う小さなリュックを手に持ったまま私を見つめ続けた。
「葵?」
 美玖は笑顔で私の名前だけを口にした。
「あ・お・い?」
 私が首を傾げると今度は区切ったように言った。その表情は笑顔であるのだが、どことなく怒っているようにも見えた。笑う口元に対して目が歪だった。
「言うことは?私に?」
 美玖は首を左右に傾けながら倒置法を繰り出した。それでも私は美玖の意図を汲み取れなかった。ただ美玖が何も言わず私を問い詰めるこの光景に既視感があった。
「私は悲しいよ。親友だと思ってたのに」
 美玖はわざとらしく鼻をすすり、自分の席にリュックを置いた。
 美玖にとって親友は近くて、私にとって親友は遠い。同じ距離でも、その捉え方の違いが私たちの間にあった。でもそれはもう昔の話で、今美玖は私のただの親友。だって私にはもう恋人がいるんだから。祐樹くんと付き合い始めて一か月半、私はそう思うようにした。
 美玖はまた私の席のそばに戻って立って言う。
「彼氏できたんだって?」
 そう言われて私は目を見開いてしまったと思う。美玖には知られたくないと思っていた。その理由は、分からなかった。だって親友の美玖に別に知られていようが、知られてなかろうが私の運命は変わりなどしないのだから。続けて美玖は言った。
「しかも、この前振った後輩くんらしいじゃん」
「そこまでなんで知ってるの?」
「バレー部の子に聞いた」
「もう、また?この前はラグビー部だったし」
「それで、なんで今度は後輩くんと付き合おうと思ったの?」
 あなたに振られた傷を癒すためだ、と何故か美玖に言いたくなった。どんな顔をするだろうか、想像しようとして止めた。
「美玖が付き合ってから知っていけばいいって言ったから。もしかしたらほら、あの例の運命の人かもしれないでしょ?」
「ちょっとそれ何か馬鹿にしてない?」
 美玖は唇を尖らせてかわいく拗ねた。
「してない、してない」
「それで、運命の人だった?」
 私はあの日のことを思い出す。心が通い合う瞬間、私は祐樹くん押しのけてしまった。
「うーん。まだ分からないかも」
 私は薄く笑った。
「ていうか葵どうして教えてくれなかったの?告白されたは仕方がないとして、彼氏ができたらさすがに教えてほしかったなあ。いつから付き合ってたの?」
「……一か月半前くらい」
「それってちょうど私が付き合い始めた時期じゃない?」
「すぐあとかな」
 というか美玖と晃先輩が付き合い始めた次の日の夜なのだが。それを言うと勘繰られてしまう気がして言わなかった。
「なら、なおさら言ってよ!と思ったけど、でもそうだよね。そろそろ子離れしないとね……」
「ちょっと親じゃないんだから」
 そう言うと美玖が笑った。
「寂しかったなあ。どうして教えてくれなかったの?」
 美玖は口を尖らせて下を向いた。
 誰にも知られずにひっそりと心の欠けた部分を補ってほしかったから。当然、それも言えるわけがなく、「ごめん」と適当にはぐらかした。
「冗談だよ、冗談!ごめん、そんな謝らないで!」
 美玖は焦ったように私の頭をそっと撫でた。それだけで私の気持ちは嘘のように晴れ、教室の温度が上がった気がした。自然と口角が上がっていたことに気づいて、さらに暑くなって、手で顔をあおいだ。でもこれは美玖だからってわけじゃない。親友だろうが誰だろうが頭を撫でられれば、体の温度も上がる。
「デートしてるの?」
「最近はあんまり」
 祐樹くんとは遊園地の後、少しの間気まずい空気もあったが、部活で顔を合わせているうちに、徐々にまた打ち解けた空気で話せるようになった。それでもまだ私も祐樹くんもお互いにどこかに出かけようと言い出せずにいた。
「そっか部活忙しいって言ってたもんね」
「あ、でも一か月くらい前に遊園地行ったよ。ほら!菜緒と陽菜と四人で行ったところ!」
「え、本当に?あそこ私たちも行ったよ」
「晃先輩と?」
「うん。受験勉強で忙しいからあんまり遊べないんだけど。受験本番が近づいてきたら遊べないからって時間取ってくれてさ」
「優しいね」
「本当優しい。だけど、コーヒーカップで晃くんすごいはしゃいでるところはすごくかわいいの」
 呼び名が変わっていた。別にきっとおかしいことじゃない。仲が深まれば呼び名が変わることくらいある。
「彼って落ち着いたところあるじゃない?だからそのギャップがねえ。あと細かい気づかいもすごくて――」
 美玖は楽しそうに二人の思い出を語る。美玖の中の思い出は晃先輩とのものに変わっていってる。語るたびに口角をあげたり、頬を赤らめたり、斜め上を向いたりする。美玖は私の存在しない遊園地の思い出を語った。
 そのあと、美玖は少し黙って「ねえ、葵?」と言った。
「何?」
 美玖は口をもごもごと動かす。そして私の様子を伺うように言った。
「祐樹くんとキスした?」
「え!?」
 唐突に美玖が聞くから私は露骨に動揺した。
「どうしたの急に」
「いや、キスしたのかなあって」
 観覧車でのことを思い出してしまって、必死に振り払った。
「してない」
 美玖は「ふうん。そうなんだ」とだけ言った。
「……美玖はキスしたの?」
 親友として、知りたいから聞いた。
「聞きたい?」
「聞きたい」
「実は……」
 美玖は顔を近づけて声を潜めた。私は次に美玖の口から何が発せられるか、その口の動きを注意深く観察した。
「しちゃった」
 キス、したんだ。私は心の中で呟いた。
 美玖は口元を緩ませ、それを抑えるために唇に力を入れた。頬はわずかに紅潮し、熱くなった頬を手で押さえてちらちらと私の方を見る。これほど恥じらう美玖を私は見たことがなかった。私の知らない美玖が目の前に立っている。
「晃くんとその日のデートの帰りに散歩しようって駅の周り散歩してさ、それから公園のベンチでおしゃべりしてたの。そのあと会話がなくなったときにね、お互い無言で見つめ合ってたら……いつの間にか吸い込まれてた。私初めてだったけど、ああ今キスするんだって本能で分かっちゃった」
 語る美玖の目は私を見ていない。ここにはいない恋人の姿を見ている。私が立ち止まっている間にも二人は愛を深めているだと知った。
「もう本当すごいどきどきした!」
「美玖、自分が言いたいから聞いたでしょ」
「ばれた?」
「もう!」
 美玖が笑うから、私も笑った。
「はあ。憧れの晃くんと付き合えるなんて本当夢みたい。葵が協力してくれたおかげだよ」
「そんなことないってば」
 私のおかげだ、と言わないでほしい。そう言われると何故か心がざらついた。
 美玖が晃先輩とごはんに行きたいと言ったとき、彼は忙しいらしいと嘘を付いたらどうなっていただろうか。晃先輩に美玖がいい子だと言われたとき、同意しなかったらどうか。ありもしない美玖の悪口を先輩に吹き込んだとしたら。そんなことは何があってもしないだろうけど。
 今となってはもう関係ない。私は私で祐樹くんと幸せになって、美玖は美玖で晃先輩と幸せを感じればいい。美玖と晃先輩の恋は順調に進んでいる。それを微笑ましく見守るのが、親友の役目だ。
 美玖は突然周りを見回してしゃがみ込み、胸ポケットの中から白くて四角い何かを取り出した。
 美玖がそれを広げて正体が分かった。美玖が取り出したのは小さな葉を模した刺繍が小さく施されたハンカチだった。美玖はそれ私だけにこっそり見せた。
「これ晃くんにもらったんだ」
 美玖は広げたハンカチをうっとりと眺めた。私はその顔を眺めた。
「プレゼントが冷める原因になったりするって言うけど、私のこと考えて選んでくれたんだって思うだけで嬉しいんだね」
 美玖はハンカチを両手で掴んで大事そうに胸のあたりに当てがった。
「あ、センスが悪いって言ってるわけじゃないよ。デザインもすっごい気に入ってる」
「私もかわいいと思うよ」
「本当?ありがとう」
 美玖はそう言うと、ハンカチを胸ポケットの中にしまった。
「葵はまだ運命の人かどうか分からないって言ってたけどさ。こういう一つ一つの思い出が二人を運命の人に変えていくんだと思うんだよね。私なんかまだ晃くんと釣り合わないかもしれないけど、これがあると、彼のそばにいていいんだって思えるんだ」
「さすが、ロマンチストだね」
「もう茶化さないで」
 チャイムが鳴ると美玖は机の方に戻っていく。
 親友の惚気話。疎ましく思いながらも微笑ましく聞くのが正解で、私の行動は模範解答だったと思う。
 美玖はもう幸せに向かって歩き出している。私と祐樹くんも前に進まなければいけない。
 祐樹くんといるのは楽しい。祐樹くんがこんな私を好きでいてくれると思うと心があったかくなる。美玖の言う通り、一つ一つの思い出が相手を運命の人に変えていくのなら――。
 私は祐樹くんにメッセージを送るためにスマホを開いた。
 その時スマホが震えて、驚いた。体がびくりとしてしまい教室を見回すが、誰も私を気にしてはいなかった。
 スマホの画面を確認すると祐樹くんではない別の人からのメッセージが浮かんでいた。

   ○

「こうやってご飯食べるのも久しぶりだね」
「そうですね」
「部活引退する前は毎週のように行ってたのに」
 七海先輩はハンバーガーを食べているだけで華がある。七海先輩は小さく一口頬張って、唇の横に付いたマヨネーズを中指の先で取って紙ナプキンで拭った。その合間に口を細めてストローでコーラを飲む。近くの席の男子生徒たちは、ちらちらと七海先輩の顔を覗くように見ている。彼らはまるで私など存在しないかのように、私には目もくれず、七海先輩を一瞥してはこそこそと顔を寄せ合って何かを話している。七海先輩はそんなあらゆる方向からの視線や秘密の会議を気にしている様子もない。
 厨房の中で常に忙しく店員が動き回っている。注文口からはよく通る声が並んでいる客を次々に呼び込んでいる。
 高校から坂を下った先にあるファーストフード店は周辺の学生で溢れかえり騒がしい。私たちを含めここにいる生徒たちは椅子に縛り付けられて持て余したエネルギーを発散している。
 七海先輩が引退する前は部活後や部活のない放課後に共に誘い合ってよく二人でご飯に行くことがあった。部活の相談事をすることもあれば、他愛もない会話をすることもあった。彼女は所謂何でも話せる先輩だった。と言っても、美玖が好きなことは、何でも、の範疇を超えていた。
 今日は久しぶりに連絡してくれた七海先輩と私が部活のない日に待ち合わせてあの頃と同じようにファーストフード店で近況報告がてら会うことになった。
「やっぱり受験勉強忙しいんですか?」
「模試が終わってちょうど落ち着いたところ」
「調子はどうですか?」
「うーん、まずまずかな。第一志望には何とか合格できると思う」
「さすがですね。陽太先輩はちゃんと勉強してますか?同じクラスですよね?」
「多分してると思うよ。教室のゴミを一週間に一回まとめて回収場所に持っていく係を、よくサボって先生に怒られてるけど」
「相変わらずですね」
「本当、元キャプテンなんだからしっかりしてほしいわよね。先生に言われてもゴミ箱の中身を押し込んで、まだ入るのでもったいないと思います、って言って」
「でもそれだと結局持っていくときに、重くなるんじゃないですか?」
「筋肉の塊だからね。気にならないみたい」
 人間性の晃、プレーの陽太。二人が最高学年になるまで、よくそうやって比較されていた。陽太先輩は体格がよくパワーのあるスパイクを持ち、それでいて誰よりも繊細なレシーブで、総合的な視点で見れば圧倒的に誰よりもうまかった。対して晃先輩はコースを狙ったスパイクで陽太先輩と同じくらい点を決めていたが、レシーブが苦手でよく対外試合のサーブで狙われていた。だけど人の良さに関しては圧倒的に晃先輩の方が優れていた。陽太先輩が先生に言われてもゴミを持っていかない姿を想像できるが、晃先輩は先生に言われなくてもゴミを持っていく姿を容易に想像できる。
 晃先輩がエースと呼ばれるようになったのは、陽太先輩がキャプテンという称号を手に入れてからだ。もし晃先輩がキャプテンになっていたら、陽太先輩がエースと呼ばれていただろう。
 全部員の話し合いの末、キャプテンの体格がいい方が相手を威圧できる、キャプテンという立場を与えた方がしっかりするようになるだろうという理由から、陽太先輩がキャプテンになった。その目論見通り、試合相手はキャプテン同士の挨拶の時に適度に恐れおののいてくれたし、部活中はキャプテンらしいと思えるような行動をするようになった。と言ってもキャプテンらしさが何かと言われれば答えられないのだけれど。
 引退してキャプテンという称号をはく奪されて、もしかしたらただのプレーの陽太に戻ってしまったのかもしれない。
 七海先輩はハンバーガーを食べる合間に、細い指先でポテトを摘まむ。その一挙動ですらも美しいと思えてしまう。七海先輩は「うん、美味しい」と満足そうにうなずく。
「なんか七海先輩がこういうの食べてるの不思議に思えます」
「え、どうして?」
「だって健康に良さそうなものしか食べてなさそうなんですもん」
 七海先輩はどうすればその体系を維持できるのか、疑問に思えるほどスリムなスタイルを維持している。地元の小さな事務所からモデルのスカウトが来ているという噂があるほどだった。その噂は七海先輩本人が否定しているが、本当はスカウト来ているのではないかと私は思っている。
「最近は確かにたまにしか食べないかも。でも、葵とは特別」
 そう言って七海先輩は笑って、またポテトを一本つまんだ。
「そういえば最近知ったんだけど、晃、葵の親友と付き合ってるんだって?」
 一瞬動揺した。
「心配しないで。晃の友達として聞きたいだけだから」
 七海先輩は私が彼女に気を使って返事をしないようにした、と捉えたようだった。
 晃先輩と七海先輩は誰もが認める美男美女カップルだった。バレー部の黄色い声援を浴びるエースと誰もが振り返る美貌を持つマネージャー。誰もが羨む理想のカップルだった。私の同級生は誰しもバレーボールに興味はなくとも、二人を一目見ようと一度はバレー部の体験に来たことがあるという逸話があった。
 この人が晃先輩を繋ぎとめてくれれば美玖が彼と付き合うこともなかったのに、と人知れず筋違いな恨みをぶつけたこともある。美玖と晃先輩が付き合わなかったところで、私と美玖が付き合えるわけではないのだけれど。
「はい。私のクラスの美玖って子と付き合ってます」
「へえ。ねえ、美玖ちゃんってどんな子?」
「面白くて優しくて、すごくいい子ですよ」
 いい子だ。私が好きになってしまうほどに。
「本当?よかった。どう美玖ちゃんと晃うまくやれてる?」
「美玖がこの前初めてプレゼントされたって喜んでました」
「晃、何あげたって?」
「ハンカチらしいですよ。美玖が見せてくれました」
「ちゃんとセンスのいいやつだった?」
「はい。小さな葉の刺繍がされたシンプルでかわいいやつでした」
「そういうセンスだけはあるからなあ、あいつ」
 あいつ、という言葉に張り裂けんばかりの愛慕が込められているように感じた。七海先輩はいじけるようにコップから飛び出たストローを人差し指で左右に揺らして窓の方を向いた。窓の下にある席の男の子たちが嬉々として騒いでいる。だが七海先輩はきっと、晃先輩をあの空に浮かべている。七海先輩はきっとまだ晃先輩のことを好きなんだろうな。
 七海先輩はハンバーガーを食べ終わると、包み紙を綺麗に畳んでトレイの脇に置いた。するとその途端、七海先輩の表情が徐々に陰ったように見えた。どうやらそれは私の思い違いではなく、七海先輩は思い詰めたように下を向いた。それは深刻な話の前触れのように感じた。七海先輩は改まったように咳払いをして、おもむろに口を開いた。
「あのさ、美玖ちゃんの周りで何か変なこと起こってない?」
 どんな時でも暖かさを孕んでいる七海先輩の表情は、いつになく真剣だった。
「私は知らないです」
「そう。それならよかった」
「どうしてですか?」
 私が聞くと、七海先輩はさらに顔を曇らせた。私はその顔を見つめた。七海先輩は重々しい口を開いた。
「実はね、私が晃と付き合ってたとき、嫌がらせにあうことがあってね」
「え?」
 それから話された嫌がらせは陰湿なものだった。直接的に対峙することは決してなく、学校のロッカーにおいていった教科書をゴミ箱に捨てられたり、上履きがグラウンドの端の方に放り投げられたりしていたらしい。
「高校生にもなってそんなことするなんて信じられません」
 一瞬、七海先輩の表情が固まったが、すぐに表情を崩して「本当ね」と言った。七海先輩は当時のことを思い出してショックを受けているのだろう。七海先輩はさらに思いつめたような表情になる。
「あとね、こんなものも」
 七海先輩は鞄の中で何かを探した。私は七海先輩が鞄の中から取り出した黒い紙を受け取り、そして絶句した。それは元から黒かったわけではない。わずかに隙間に白かったころの面影が見える。そのほとんどが黒く染まった紙は狂気の集合体だった。目を凝らすとその狂気の正体が分かった。紙は何十、何百の小さな『死ね』『別れろ』という字で埋め尽くされ、そしてその一番下に『誰かに喋ったら殺す』と書きなぐられていた。
「私、これ見たとき本当怖くて」
 七海先輩の声は震え目が潤んでいる。彼女の中に恐怖がよみがえっているのだろう。
「誰かに相談とかは?」
 七海先輩は静かに首を横に振った。
「この紙を持って先生に相談に行こうとしたの。そうしたら……」
 七海先輩はそこで言葉を詰まらせる。その表情に暖かさは見る影もなく、悲壮感だけが漂っている。七海先輩はその顔を手で覆い隠した。そして彼女は言った。
「誰かに階段から突き落とされて」
 手の隙間から鼻をすすっているのが聞こえた。
「幸いねっ、怪我はなかったんだけどっ。それ以来っ、誰にも相談できなくて」
 七海先輩の言葉はすすり泣く音で跳ねながら、私の元へ真っすぐに届いた。私は手に持っていた黒い狂気を握りしめた。
「もしかしてこれ、私とご飯を行ってくれてた時期もずっとそんな目にあってたんですか?」
 葵先輩は目を伏せて頷いた。
 私は怒りに震えた。久しく情熱を失っていた心がうちから燃え上がるのを感じた。
「許せないです。やった人も私のことも」
「どうして?葵は何も悪くない」
「だって先輩がそんな目にあってるなんて気づけなくて。その時気づけてたら力になれたのに」
「葵は優しいね」
 七海先輩は弱々しく微笑む。
「七海先輩には本当に感謝しているので」
 七海先輩には何度も助けられてきた。同期との関係がうまくいかなかった泣いていたとき、話を聞いてくれた。その上で全員で話し合う機会を作ってくれた。代が変わって私がマネージャーを仕切るようになって不安でいっぱいだった私に「葵なら大丈夫」と背中を押してくれた。
「七海先輩がいなければ、バレー部を続けられてないです」
「そう言ってくれて嬉しい」
 目に涙を浮かべながら、ようやくいつもの七海先輩の表情に戻った。
「やった人に心当たりはあるんですか?」
「私たちが部活を引退したときに別れたあたりからぴたりと止んだから、多分晃のことが好きな子の仕業なんだと思うけど、それ以上は何とも」
「なるほど」
「あ、でも……」
「何ですか?」
「もしかしたら葵たちの同級生なのかも」
「どうして分かるんですか?」
「嫌がらせが始まったの。葵たちが入学してきたあとなの」
「それなら、確かにそうかもしれません」
「実はね、そういう目にもしかしたらあうかもしれないから気を付けてって、葵から美玖ちゃんに伝えてもらおうと思って今日は呼んだの。特に同級生の仕業なら余計危ないかもしれないから」
「やっぱり七海先輩って優しいですね」
「そんなことないよ」
 七海先輩は優しく微笑してそう言ってさらに続けた。
「もし美玖ちゃんが困ってたら、私に教えて。きっと力になれるから」

 日が暮れて店を出ると、心なしか少し涼しくなったような気がする。後ろから風が吹き、それに押されるように私たちは地下鉄の駅に向かった。階段を下りて、私たちはホームにちょうど到着した電車に早足で歩く。体を動かすと、少し暑く感じた。
「ふう、間に合ったね」
 私たちを乗せて電車は出発した。襟元をぱたぱたとあおぐ七海先輩には色気があった。七海先輩がつり革を持ったときに制服の袖から見える細く白い二の腕をきれいだと思った。何をしても画になるなあ、とその姿を見て感心した。
 車内は空調が寒いくらいに効いていて、早歩きで熱くなった体もすぐに冷えた。
「そういえば、祐樹くんと付き合ってるんだって?」
 唐突に七海先輩が言った。
「バレー部の誰かに聞きました?」
「そう。よく分かったね」
「今日の朝、親友にもそうやって言われたので」
「そうなんだ。でも、二人が付き合ってるのなんか微笑ましいな」
「どうしてですか?」
「だって祐樹くんが葵のこと好きなの有名だったから?」
「それ誰かにも言われたんですけど全然知りませんでした」
 晃先輩にも同じことを言われたとさすがに言えなかった。
「そうなの?すごく分かりやすかったのに。祐樹くんみんなに葵のこと好きだ好きだって言いふらしてたよ」
 祐樹くんがなぜそれほど私を好きになってくれたのか、私は見当もつかなかった。
「……どうして彼は私のことを好きになってくれたんでしょうか?」
「知らないの?」
「そんな話、したことがなかったので」
「本人に聞くのが一番よ」
 七海先輩は静かに微笑んで言った。
 地下鉄に乗って三駅目で七海先輩は電車降りた。電車はもう少し、私を乗せて運んだ。
 その中で私は決意に震えて、つり革を強く掴んだ。こんなに心が綺麗な七海先輩に嫌がらせをするなんて許せない。それに、もし美玖をこれからそんな目に合わせようとするならたたではおかない。美玖に悲しい思いは絶対させないよう私が守る。そう心に誓った。
 でもその前に祐樹くんとの関係を前に進めたい。私はつり革を持った自分の腕に頭を乗せた。
 私はスマホのメッセージアプリから祐樹くんの名前を探した。最後は彼からのメッセージで止まっていた。
【今週末のオフの日、予定空いてる?】
 そう送信すると、すぐにスマホが震えた。