相も変わらずスムーズに開かない部室の引き戸が、今日は一際重たく、堅い気がした。鬱蒼とした気持ちで室内に入ると、机に向かっていた倉吉先輩が振り返る。

「おはよう、ミャオ」

「……おはようございます」

 まるで昨日のことが夢だったかのように、倉吉先輩は晴れやかな笑顔を浮かべていた。私はぎこちなく微笑み返して、彼の向かいの席につく。

 鞄からファイルを取り出しながら、さりげなく倉吉先輩を見つめた。正確には、彼の首に巻かれた赤いマフラーを。

 ――ショッピングモールで柚香さんの赤いマフラーを確認した後、穂乃花は早急に柚香さんのことを母親に相談した。穂乃花の母親がそれとなく柚香さんの両親に連絡を取ったところ、義弟さんは……倉吉先輩は、DVの事実を否定しているのだという。

 穂乃花の憶測と、私だけが視認できるマフラーの有無。確かな証拠もない現状では、一概に柚香さんを悪だと断罪することはできなかった。

 当事者の倉吉先輩がDVを受けていることを認めなければ、私達だけではこれ以上手の打ちようがない。

 穂乃花は「私が余計なことをしたせいで、柚香さんのDVが激しくなったのかもしれない」と自分を責めていた。そんな彼女を励ます言葉を見つけられず、私自身陰鬱な気分のまま、今日を迎えた。

 普段と変わらない倉吉先輩の様子にほっとしたが、今ではもう、彼の笑顔が心からのものだとは思えない。誰かの笑顔を見て、こんなにも悲しくなるのは初めてだった。

 シャーペンを動かしていた倉吉先輩が身じろぎして、マフラーが僅かに下がる。彼の顎下から首にかけて、赤い斑点模様が広がっているのが見えた。

「倉吉先輩っ」

「ん?」

 思わず強い語気で名前を呼ぶと、倉吉先輩は顔を上げて、不思議そうに首を傾げる。

 私は目を凝らして、ようやくその赤色が自分の想像していたものは違うことに気がついた。

(あれは、汗疹だ)

 当然だ。四月後半の徐々に暖かくなってきているこの時期に厚手のマフラーを巻き続けていれば、汗疹だってできる。

(倉吉先輩だって、好きでマフラーを巻いてるわけじゃないはずなのに……)

 胸が苦しくなり、自然と眉間に皺が寄る。突然泣き出しそうな表情を浮かべる私を見て、倉吉先輩の顔から笑顔が消えた。

「ミャオ? どうしたんだ?」

 怪訝そうな倉吉先輩に、質問を投げかけようと口を開く。けれど、その言葉は喉から出てくることを拒んで、私はそのまま下唇を噛んだ。

 眼前の倉吉先輩に「辛くないですか?」なんて、誰が聞けるだろう。きっと、辛いに決まっているはずなのに。

 普段の笑顔だって、倉吉先輩が必死に作っている偽物。まがい物だ。恐らく、昨日の人形のように無表情だった方が、彼の素なのだろう。

 助けて。

 誰にもその一言を伝えられず、一人で全てを抱え込んで。自己防衛のために自ら全ての感情を切り落としている。

 そんな倉吉先輩に、私はなんて声をかけたらいいのか。わからない。

「スランプ、か?」

 倉吉先輩は視線を落とし、ファイルから原稿用紙を取り出せずに固まっている私の手元を見つめて言った。

「……はい」

 ファイルを握る指に力を込めて、頷く。

 全くの嘘ではない。昨日帰宅した後から頭の中は倉吉先輩のことでいっぱいで、ずっと創作する気にはなれなかった。

 倉吉先輩は眉を下げて、柔らかく微笑んで告げる。

「ついにミャオにも来たか。カウンセリング教室は必要か?」

 私はふるふると首を横に振って答える。

 やめて。無理して笑わないで。

 倉吉先輩のそんな悲しそうな笑顔は、見たくない……っ。

 彼はふうっと息をつくと、私と目を合わせて優しく諭すような声で言った。

「スランプ中は、無理に書こうとしないほうがいい。焦らなくても大丈夫だ。今日はもう切り上げて、息抜きに図書室にでも寄ってみるのはどうだ? 同じ階のすぐそこにあるわけだし」

 このままここにいても、今の私が倉吉先輩にできることは何もないのかもしれない。

 そう思った私は素直に頷き、パイプ椅子から立ち上がった。ファイルを鞄の中に戻して、鞄を肩にかける。

「お先に、失礼します」

「お疲れ。……あんまり無理するなよ」

 倉吉先輩の笑顔に見送られながら、部室を後にする。引き戸を閉めた後、すぐ横の壁にもたれ掛かって大きなため息をつく。けれど、この鬱蒼とした気持ちが晴れることはなかった。