自分の住むマンションが好きだった。
駅から決して近くない、そして少しだけ古いその建物は、幼い私の記憶ほぼすべての背景としてそこにあった。7階建ての、7階の角。祖父と2人暮らしとなってからは、少々広すぎるくらいだったから、祖父は毎週のように人を呼んでは、晩御飯を振舞った。きっとそのおかげもあり、広い部屋に漂う空っぽの空気をあまり感じることなく、私は大学入学まで健やかに過ごすことができた。
家に来るのは祖父の仕事仲間だったり、私の同級生だったり、両親の旧友だったり、それはもう様々。
祖父の交友関係の広さやコミュニケーション能力の高さには驚いたが、同時にごちそうを毎週末作るおかげでみるみる上達する自分自身の料理の腕にも驚いた。

なかでも、同じマンションの1つ下の階に住む松原家とは、家族同然の付き合いだった。ファミリーマンションなので私と同年代の子は何人も住んでいたのだけれど、松原優史だけが幼稚園から同じ、同い年の幼馴染だった。優史は名前通りの優しい人で、それは誰に対しても、また大きくなっても、ずっと変わらなかった。そしてさすがは親子、お母さんとお父さんも温かい人で、私は松原家と過ごす時間がとても心地よかった。

優史をユウちゃん、と呼んでいた幼少時代から、中学に入り思春期のせいか何となく申し訳なくなり松原、と呼んだのち、大学に入り優史と呼び方を改めた。決定的な言葉は無かったが、大学に入る年の春、私と優史は付き合った。



「夏花、もうそろそろユウちゃんたち、来てしまうぞ」
それは夏のこと。私は例年通り、家でケーキを作っていた。
「うん、もうすぐできるから。おじいちゃん、あの1番大きいお皿出してもらってもいい?」
「おお、今回もおいしそう。このケーキの色だと、黄色の器だな」
「ありがと。なんてったって今年からは、授業で学んだことも取り入れてるからね。ただ学校でも家でも、自分の誕生日までお菓子作りさせられるのはちょっとうんざりだけど」
そう言ったものの毎年張り切って(楽しんで)しまっていることを、祖父も私自身もよく分かっている。

優史と、その妹のくるみちゃんと私の3人の誕生日は、この無駄に広い吉田家で祝うというのがお決まりになっていた。始まりは、先に書いたように祖父が私のために家に人を招いたところからだったが、いろんな人を招くのも、年齢が上がるにつれて生活の流れが変わり、徐々に減っていた。

それでもこの誕生日会だけは、当日開催こそ難しくたって、毎年欠かさず行われていた。私たち子どもは純粋に楽しかったし、両親がいない吉田家と、祖父母が遠方に住む松原家とで、大人たちは需要と供給が一致したと思ったのだろう。こんな言い方をすると薄情者のようだが、私はかなり感謝している。だっていつもこの集まりは皆が笑顔で、誰か1人を祝って、そんな一体感がまるで本当の家族のようで、私にとって幸せそのものだった。
それに、学校がバラバラになって優史と会うことが減ったときだって、ここで繋がっていたおかげで、いま私は優史の隣にいるのだとも、そう思う。

さて、なぜ私が自分の誕生日に自分でケーキを作っているのか。その理由は単純で、私が作るケーキが美味しかったから。それだけだ。
ずっと、ケーキは優史のお母さんが買ってくれていたのだが、ある年の優史への誕生日プレゼントとして、手作りのケーキを用意してみたらそれが大好評だった。それからというもの、この行事では私がケーキを担当することになったのだった。あんなに美味しいと言い、ホールケーキの半分を一人占めする優史を目の前で見たら、そりゃあ作りたくもなってしまう。毎年飽きもせずに素人のケーキを美味しそうに食べる姿を見ていて、気がついたら大学も栄養学科を選んでしまった。きっと私は、褒められて伸びるタイプだ。



「あ、きたきた」
チャイムが鳴り、祖父は玄関に向かった。盛り付けをさっと終わらせ、私は冷蔵庫にケーキを仕舞った。
「なっちゃん!誕生日おめでとう」
「あーいらっしゃい。くるみちゃん、ありがとう」
私たちより10歳下のくるみちゃんは、まだ小学校に通っている。優史に似て、というか両親に似て、くるみちゃんも優しくって人懐こい。ただ、学校ではその優しさゆえ何かと遠慮しすぎてしまい、友人関係が少しだけ上手くいっていないという。私にはどうすることもできないから、この場では純粋に明るいくるみちゃんでいてくれることが、嬉しい。くるみちゃんにとっても、ここは大事な場所なのだろうか。自分の大切な場所が、誰かの大切な場所だということは、嬉しいしなんだか自信がつくものだ。

「夏花、おめでとう」
くるみちゃんがお母さんのところに戻ったのと入れ違いで、優史が台所に入ってきた。
「本当は2人だけで彼女のことを祝ってあげたかったりして」
茶化すつもりで私が言うと、意外にも優史は照れた顔つきになった。私は少し慌てて、
「冗談。今さらこの恒例行事を終わらすつもりもないし私これ大好きだし、来年も再来年もその先もずーっと、こうして家族皆で祝ってもらうんだからね」
私がこの集まりを大事にしていることは優史も分かりきっているので、さらりと言ったつもりだったのに、優史の表情は変わらなかった。
「そりゃ、付き合って初めての誕生日なんだから、少しはそんな気にもなるだろ」
急におふざけ無しで返されると、私まで照れてしまって恥ずかしい。
そういえば優史の口から「付き合う」という類の言葉が出てきたのは初めてかもしれない。そのせいで、この程度で照れてしまうのだから、やっぱり告白はきちんとしてもらうべきだったな。
「聞いてる?」
「ああ、うん。なんか、付き合ってるんだなーって。私たち」
「何を今さら」
口ではそう言ったものの、私と同じような感覚を持ってくれたのだろうか。優史は私の好きな、優しい笑顔を作った。
なんだろう、私は優史と付き合っている。そのことを改めて噛み締めるこの感覚は、なんだか気分がいい。

「あ、だからこの後さ、夜また2人でまた会おう。渡したいものがあるんだ」
誕生日に渡したいものなんて、120パーセントの確率で誕生日プレゼントに決まっている。かれこれ15年近く貰い続けているのに、今さら何をそんなに勿体振る必要があるのだ。
と、そう口にしようとしたことを察したのか、
「いやあ、なんというか、俺が今まで渡してたの、ほとんど母さんが選んでくれてたんだよ。その方がきっと夏花のセンスとも合うし……。で、今回初めて、1人で選んだ。だからちゃんと見て欲しい。というかごめん、恥ずかしい」
私と優史の関係は、両家族ともに認識済みだ。そんな中でプレゼントを貰うのは確かに気まずい。あげる側の彼なんてなおのことだろう。私は優史からの提案に了解して、夜にもう一度会うことになった。



食卓を囲み、皆でご馳走を食べる。たわいもない会話を楽しみ、ケーキを食べる。毎年変わらないけれど飽きることのないそんな時間は、あっという間に過ぎてお開きの時間になった。けれどまたすぐに、くるみちゃんの誕生日がやってくることを知っているから、惜しみすぎることもない。
あと何十回も続く恒例行事。そう考えるのは当たり前のことだった。