本当は〝事件〟なんて存在しないのかもしれない。ただの事故、不幸な偶然が重なっただけで、劇場における華やかな夢物語は今日も昨日も明日も、それこそホーソンが語るように繰り広げられている。
 事の顛末を報告書にまとめるよう言われている手前、今日ここで聞いた話をどうしようかと不意に悩んだ。俺の手には余る。一言一句そのまま書いて提出すれば、まず間違いなく跳ね返された上に赤字で修正がびっしり入るだろう。
「逆に聞くが。アンタ、警察が嫌いだろう」
「小さい頃は怖かった。でもフィヨルドさんは別、名前は冷たいのに心はあったかいから」
「それは、初めて言われたな」
「俺が犯人、とは考えないんですね」
 その時窓の外でエンジン音、それから慌ただしい足音と共にドアが開かれた。埃っぽい空間が衝撃で震える。
「フィヨルドさんすみません!遅くなりました、全然店が開いてなくて。ドーナツです!」
「ありがとう刑事さん」
 メモやテープレコーダーを仕舞い立ち上がる。せめてもの礼儀でコーヒーだけは飲み干そうと思っていたが、俺の知らないうちにマグは再び空になっていた。どれだけ話し込んでいたんだろう。
 椅子から立ち上がった瞬間、腰と膝の関節がパキンとなった。手足の先端が痺れに似た感覚を訴えている。
「ご協力に感謝します、支配人」
「……」
「……感謝します、ホーソンさん」
「やっぱりフィヨルドさん、この世界にも来てほしいな」
 俺の部下が目を白黒させて棒立ちになっている。恐らく、自分がドーナツを買って戻ってくるまでは事情聴取が中断されていると思っていたのだろう。
だがたった今、全ては終了した。
 劇場のバックヤードを後にする際、閉まる扉の隙間から一瞬ホーソンの姿を垣間見る。俺が初めてここに来た時と同様、年季の入った椅子へと優雅に腰を下ろしていた。唯一違うのは、手にしているのが本ではなくドーナツの袋だったということだけ。
「何が情報掴めましたか?」
「……犯人なんていないのかもしれん」
「え?!」
「って言ったら部長キれるよな?」
「まぁそうかもしれないですけど。絶対証拠を見つける事に定評のある『氷のフィヨルド』さんが珍しいっすね」
「事件に感情はあっても、証拠に情はいらないんだよ」