まだインクの乾き切っていない出来たての原稿を手に、俺は劇場へ向かっていた。道中、マグカップのコーヒーを飲み忘れたことに気が付いたが。まぁ帰ってからでもいいだろう。ぬるいコーヒーにはぬるいなりの渋みがある。
真夜中の劇場には誰もいなかった、そもそもいたら十中八九泥棒か何かだろから通報する。『THE Box』の看板が夜風に軋む。次の定期公演は二か月後、定期的にメンテナンスは頼んでいるんだろうが、創作者の自分にとって維持費まで気にしているほどの意識はなかった。
監督権限により貰っていた合鍵で裏口を開ける。何十年も立て付けが悪いままのドアが鈍い音を響かせた、誰が座るのかも分からない古びた一脚のソファが視界に入る。意外に埃は被っていないから誰か使っているのかもしれない。
そのまま通用口を通り、客席と舞台のある空間へと足を踏み入れた。
「……」
 暗闇に目が慣れていく。ビロードの椅子、深紅の緞帳、照明器具たちが決められた位置に鎮座している。メリーゴーランドの木馬も開演前はこんな感じに違いない。
「変わらないな」
 劣化こそあれど、いくつもの公演が行われてきた空間には言語化を憚られる『時間』がずっしり横たわっていた。誰もいない間だからこそ、無機物が雄弁に物語る。
 当然、自分以外の脚本家たちによる演目もこの劇場で幾度となく上演されている。こちらはあくまで雇われの身、もっと逸材の新人が現れれば即解雇されてしまうだろう。幸か不幸か、その日はまだ来ていない。
 絨毯の敷かれた階段を上り、明らかに周囲とは区切られたスペースに入る。客席よりもやや簡易的な数脚の椅子と、カバーの掛けられた黒い機材、小さなマイクが並べられていた。ちょうど舞台全体が俯瞰できる、ステージと正反対の位置、自分の特等席にして仕事上座るべき場所、座っていなければいけない場所だ。いくら紙の上で物語が完結しても、実際板の上で生きている人間が動けば全く違った景色になることなどザラだ。脳内の予行演習通りには上手くいかない、だからこそこの仕事は面白い。
俺はどこかで『予想外』を待っていた。
「長くないですか?シンキングタイム」
 パッと舞台のセンターポジションに白い光が差し込まれる。暗闇に慣れていた筈の目が一瞬眩んだ、ペーパーナイフで切り裂いたような眩しさが網膜を焦がす。