「何の話だ?」
「例の噂」
「いやー……あの人に限ってそれはないだろ」
「でも俺が現役の時から何となく感じてたよ。コレは『誰かのため』に書かれた物語だ、って」
 グラッシュにしては随分とロマンチストめいた表現だった。
「誰かって?都市伝説だけ何年横行してんだよ」
「んー、まぁ誰?って聞かれたところで分かんないしさ。分かった所でじゃあどうなんだ、って感じなんだけど」
「あの堅物監督がそんなことすると思うか?恋人もいないっぽいし。恋文にしちゃ壮大すぎだろ」
 好きな相手にその想いを伝える方法は無限にある。手紙、電話、直接伝える、花束に指輪にサプライズ……そういう一般的な手法を差し置いて。自らが作った演劇とその脚本に想いを込める、とは流石にぶっ飛んでいる。そもそも監督にそういった相手がいるだのいないだの、話題にすら上らないのだ。徹底した現実主義者、使える物は使うし不要なら切り捨てる。人も物も。皆も、監督のその性格を知っているからこそ俺はこの噂話を根っから信じていなかった。
 『監督には若い頃に死別してしまった恋人がいて。彼が書く全ての脚本は死んだ相手のために書いている』なんて。噂が監督を有名にしたんじゃない、有名になったからこそ噂が流布するようになった。だからこそ面白くない。
「分かってるって。戯曲としては完璧だし最高に面白いんだけどさ……なんか、やっぱり〝あの人〟を当てはめてるっていうか」
「宛て書き?しかもそれが〝あれ〟だって?噂の候補なんていくらでもいるわ」
「火の無いところに煙は立たないよ」
「煙が立つぐらい有名なのはいいことだろ」
 それきり無言、地鳴りのような風とトラックのエンジン音が寒空の俺たちを揺らした。手袋もしていない指先がぴりっと痺れていく。雲間から顔を出した満月が世界を青白く染めていく。
 この劇場にまつわる不幸な事故と亡霊の話だ。数年前、ここの劇団員が交通事故で死んだ……確か男だ。あまりに若く、あまりに突然の死だったらしい。そいつが舞台上で見せる一瞬の輝きと鋭さ、熱意と殺意に満ちた演技を一度でも見た者は、全員その男の虜になった。だからこそ皆は役者の死を悼み、絶対にあり得ない復活を願い、妄想の中で死んだ役者を生き返らせては空想の舞台に立たせては悲しみを紛らわせている。