聞いたことのない女性の声がした。さほど広くない店内には、色々な種類のパンがぎっしり置かれている。『焼きたて』と書かれたプレートや、カラフルな字で彩られた値札が絵本のように踊っていた。壁には絵画や色の無い写真がアンティークの額縁に入れられている。中には、パン屋を取り上げた新聞記事の切り抜きもあった。この店そのものが一つの劇場のようだ。
 レジには入店の挨拶をしていた女性が一人だけ、奥の厨房では誰がの作業音が聞こえるが、そこにリックがいるのかどうかまでは分からない。あの細い腕で大きな窯を開け閉めしているのかと考えるだけで手伝いたくなった。
「あの」
「はい?」
 パンもトレーも持たずに声を掛けた自分は明らかに店内で浮いている。女性の青い瞳が不安げに揺れた。
 商品を選んでいる他の客の視線が一斉に自分たちへと向けられるのが分かる。
「ここに、リックという人が働いていませんか?黒髪で、小柄で」
「リック?あ……もしかしてあの子……よく外に配達に行ってた子なら」
「はい」
「辞めましたけど」
 その声を聞いた瞬間、体の力が抜けた。
本番前に今日の行動を起こさなくて本当に良かったと思う。その後何を言ったのかはよく覚えていない、ただレジの女性にお礼を言い、店に入った手前何かを買わないといけない気になり。レジ脇に陳列されていた小さなフルーツサンドを一つだけ購入した。
 履き潰された靴が砂利を蹴とばす。道路沿いを流れていた小川にぽちゃんと何かが落ちていく。先週の深夜、俺がパン屋を覗きに来た時と比べれば、明らかに眩しくて暖かい、綺麗な空なのに。目に映る風景の全てが空疎に感じてしまった。道行く人々は普段の『日常』を過ごし、俺だけが無駄にシリアスな物語の主人公を勝手に演じている。
「……」
 日光で温められたベンチに腰を下ろす。背負っていた鞄からさっき買ったサンドイッチを取り出した。布の一部が革と繋ぎ合わせられた鞄は死んだ父の手作りだ。
バナナとキウイが生クリームによって挟まれた部分を一口食べてみる。今まで野菜を使用した総菜パンしか食べてこなかったせいで、甘いパンは初めてだった。
「……甘すぎ」
 またどこかで会えるだろうか。