自宅のアパートまでの通りを少し逸れ、石畳と花壇に彩られた小道を覗きこむ。真夜中、水分でしっとり覆われた花弁は静かに閉じられていた。雨が降っていたのか、歩道と車道の間で濁った水溜りと落ち葉が揺らめいている。
 『Mountベーカリー』と書かれた木彫りの看板が頭上で揺れた。ドアには『CLOSE』の文字、脇に置かれたベンチは、昼食時にパンを買いに来た客が座るためのものだろう。普段の稽古が忙しく、店ま直接で買いに来たことは無いが。日中リックはこのカウンターにいる……と勝手に推測している。
今夜ここに来たところで会える訳でもない、会いたいかと聞かれれば恐らく『違う』と答えるだろう。だが、この細やかな人生においてリックは数少ない、唯一と言っても過言ではない友だった。友人のくせに苗字も知らないのか、と周囲は笑うかもしれないが。
そしてその感情は、最近になって友情の域をはみ出ようとみっともなく足掻いている。
「帰ろ」
 自分が、役者なんて華やかな世界を生業にしているとは、少なくとも一年前まで考えもしなかった。俺に向いているのは、表に立つ人間を支えていく裏方、そういう職に昔から憧れを持っていた。恐らくそれは、カバン職人である父の存在が大きく影響している。
「……言えばよかったな」
 リックは『Pride』を観に来るんだろうか。今日の昼に関係者割引でチケットでも渡しておけばよかった。どうせまた、来週パンを売りに来るからその時言えばいいと思っていたが、その時はすでに本番だ。
 そもそも、彼がどこに住んでいるのか。電話番号も好きな物も、仕事以外の時間帯に何をしているのか、家族はいるのか学生時代は何をしていたのか。何も知らない。だがリックも俺の事について知っている事なんて何もないだろう。
 結果、本番の公演中にリックは一度も顔を出さなかった。チケットの購入者名を確認した訳でもないし、客席を逐一見に行った訳でもないけれどそう思う。
ただ、リックの姿が見えないことに安堵している、これが答えだった。カーテンコールの度、割れんばかりの拍手喝采の中に見知った顔を探そうとして、すぐに思いとどまる。もともと知人の少ない俺が、ライトの逆光の中に『誰か』を見つけることは無かった。天国から両親は見ているかもしれないが。
「イング、お疲れさん」
「ユーゴさんも。主演お疲れさまでした」