第一章『疑似春日和』


昼十二時まであと数分、別に腹が減っている訳でもないのに時計から目が離せなかった。薄っぺらい秒針が円の中を一周して戻って来たその瞬間、市街地の鐘と同時に稽古場の扉が開く。
「こんにちはー!『Mountベーカリー』です!」
 眩しい笑顔と朗らかな声が、昼休憩の時間を告げた。
 香ばしい小麦とバターの匂い、隣ではユーゴさんがバーガー&スープセットを頬張っている。名作『Pride』主役のギルバートを演じる彼は体躯だけでなく器も度量も大きい。カップから立ち上る湯気の間で、負けず劣らずボリュームのあるハンバーガーが見え隠れしていた。俺だったら確実に胃もたれしそうなメニューをぺろりと平らげ、ベテラン俳優と称される彼は驕ることなくそのエネルギーを筋肉と上質な演技に変えていくのだから、何だか凄い。
「ありがとうございます、午後も頑張ってください」
 ふと、スタッフのワイグナーさんがベーグルを買っているのが見えた。パンが好きとは知らなかったから少し意外だ。俺がこの劇団に入って少し経ってから『飲みに行くぞ』と初めて声を掛けてもらった、業界の話や演劇回のブラックな実話なんかを面白く話してくれる先輩だ。口は悪いけど、舞台製作に関わる腕はプロレベルと言ってもいい。どうしてこの小劇団にいるんだろうか。
「お待たせしました、次のお客さ……!インゴットさん、お疲れさまです!はい、いつものサンドイッチ」
「……ありがとうございます」
「敬語、禁止です」
「そっちだって俺に」
「俺は年下だからいいんですよ!」
 深緑のエプロンに、きめ細やかな漆黒の髪が肩口で揺れる。唯の店員にしておくには少し勿体ないぐらいの綺麗な存在だと思っている、少なくとも俺は。
「……よく覚えてるね。俺が買うパン」
「『THE Box』さんにはいつもご贔屓にしてもらっていますし!それに、インゴットさんだけなんですよ?いつも同じ商品買っていく人。だいたい皆さんその日の気分でいろいろ変えてるのに」
「え」
「あ!いえ、変な意味じゃなくて。こちらとしてはサンドイッチを美味しそうに食べてくれるだけで万々歳ですから。本当にいつもありがとうございます」