陽茉莉たちが夕食をいただいている間、先に食事を終えた悠翔は従兄弟たちと遊んでいた。
「悠翔、帰るぞ」
食事を終えた相澤が、悠翔に声をかける。
「お兄ちゃん。僕、今日はここにお泊まりする」
「今日はだめだ。お泊まりの準備をなにもしていない」
相澤は首を横に振った。
「じゃあ、まだ帰らない。もうちょっと遊ぶ」
「今日はもう遅い。帰ってお風呂に入らないと、寝る時間が遅くなる」
再び相澤に首を横に振られ、まだ遊び足りない悠翔はむうっと口を尖らせる。
「残念だけど、また今度お泊まりにおいで。いつでも歓迎するわよ」
省吾の妻である和子がにこにこしながら悠翔をたしなめる。
「ちえっ、わかったよ」
悠翔はふてくされたように頬を膨らませたが、素直に帰る準備を始める。
つい先ほど実家で昔の相澤の写真を見たこともあり、『礼也さんも小さな頃はこんな感じだったのかな? 可愛い!』とついつい頬が緩んでしまう。
「よし、帰ろうか。お邪魔しました」
「気を付けて。また来てね」
帰り際、省吾と和子が玄関先に立って手を振る。子どもたちも大きく両手を振っているのが見えた。
「またねー!」
悠翔が大きな声で叫び、手をぶんぶんと振る。
悠翔を挟んで三人で手をつなぐと、駅へと歩き始めた。
◆◆ 3
天界に向かう日は、あっという間にやってきた。
電車に乗って八幡神社に行くと、相澤は境内の片隅にある直径二メートルほどの輪になったしめ縄へと向かう。前々から、陽茉莉が『これはなんだろう?』と気になっていたものだ。
「陽茉莉、来て。手を離すなよ」
しっかりと手を握られ、相澤と共にそのしめ縄の輪をくぐる。そこで目にした光景に、陽茉莉は思わず感嘆の声を漏らした。
「わあー、すごい!」
ついさっきまで都心にある神社にいたはずなのに、目の前にはまったく違う光景が広がっていた。
正面にまっすぐに延びる石畳の先には、大きな鳥居がひとつ。そして、同じような鳥居が左右にいくつも立ち並び、さながら鳥居の壁のように見える。
後ろを振り返ると、先ほどくぐったのと同じ、大きな輪のしめ縄があった。けれど、その向こうは竹林が広がっており、八幡神社とは似ても似つかない。
「これ、どうなっているんですか?」
「天界にゆかりのある者──あやかしや神々がくぐったときだけ向こう側の世界とつながるんだ」
「天界の者……。つまり、私がひとりでくぐってもなにも起こらないんですね?」
「そうだな。陽茉莉が向こう側の世界に行くためには、しめ縄を越える最中は天界の者に触れ続けている必要がある」
「ふーん」
それで先ほど、しっかりと手を握られていたのかと合点する。
陽茉莉は試しに、自分の背後にあったしめ縄をくぐってみた。
「本当だ。なにも起こりません」
輪をくぐっても、そこは今いる天界と同じ場所だった。けれど、相澤がくぐると八幡神社に戻るのだろう。
「鳥居がたくさんあるのは?」
陽茉莉は周囲を眺める。横一列に並んだ無数の鳥居は、どこか神秘的な雰囲気を感じさせる。
「それぞれ先に同じようなしめ縄があって、別々の神社につながっているんだ」
「へえ……」
見渡す限り、ずっと同じような鳥居だ。それぞれが別の神社につながるということは、何百、何千という数になる。
「ひとりだと戻れなくなるから、はぐれるなよ」
「わかりました」
そして、ふと気になることが頭をよぎった。
「もしくぐっている途中で礼也さんと手が離れたらどうなるんですか?」
「狭間に落ちる」
「狭間?」
「そう、狭間。現世でも隠世でも天界でもない、なにもない世界だと言われている。まあ、俺も行ったことがあるわけじゃないけど」
「なにもない……」
どんな世界かと想像して、ぶるりと身震いする。そんな場所に落ちてしまうなんて、怖すぎる。しかも、自分では脱出する術がないのだから。
「礼也さん、絶対に手を離さないでくださいね」
陽茉莉は思わず相澤の腕に自分の手を絡め、ぎゅっと抱きついた。
すでにしめ縄はくぐり抜けたのだから大丈夫だとは思うけれど、こんなトラップが他にもあったら……と不安になる。
「離さないよ。これから、ずっと」
安心させるような優しい瞳に、胸がきゅんとする。相澤は指を絡めてしっかりと手を握ると、鳥居のほうへと歩き出した。
しばらく石畳を進むと、チラホラと建物が見え始めた。どれも和風の建物で、瓦屋根に朱色に塗られた木造の柱、白い壁は神社のようにも見える。
(神様たちが住んでいるだけあって、建物が神社みたい)
初めて見る光景が物珍しく感じられ、辺りをきょろきょろと見回す。
「陽茉莉、こっちだよ」
相澤が促したほうを向くと、長い塀越しに大きな屋敷が見えた。数寄屋門の先には大きな池。その向こうには、左右対称に広がった大きな建物がある。
濃い灰色の瓦屋根と柱や梁の朱色が対照的で、間を埋める白い壁がひときわ眩しい。昔、修学旅行で訪れた京都の平等院鳳凰堂を思わせる建物だ。
「すごい……。大きなお屋敷」
想像を超えた規模に、感嘆の声が漏れる。敷石を踏んで建物に近づくと、白と朱色の袴姿の少女が竹箒で掃き掃除をしていた。
(あ。この子、もしかしてオオカミのあやかし?)
陽茉莉は、その女の子を見てあっと思う。艶やかな黒髪の間からはぴょこんと黒色のけも耳が生えていたのだ。よくよく見ると、赤い袴の後ろから黒と灰色の毛が交ざった尻尾も生えている。年齢は高校生くらいに見えた。
「礼也様、おかえりなさいませ」
けも耳の少女が相澤を見つけ、ぺこりとお辞儀をする。
「ああ、ただいま。こちらは俺の花嫁の陽茉莉。仲良くしてやってくれ」
「はじめまして、陽茉莉様。香代でございます」
その女の子──香代は陽茉莉に向かってちょこんと頭を下げる。
「はじめまして。新山陽茉莉です」
陽茉莉も慌てて挨拶を返す。
「親父はいるかな?」
「雅也様は奥にいらっしゃいます」
「わかった、ありがとう」
相澤はお礼を言って女の子に軽く手を振る。女の子はそれに応えるように、小さく頭を下げた。
「あの子もオオカミのあやかしなんですね」
「うん、そうだね。ここの屋敷にいるのはみんなオオカミのあやかしかな」
「へえ」
今の言い方だと、あの子以外にも何人ものあやかしがここに住んでいるのだろう。なんだか不思議な感じがする。
「雅也様っていうのが、礼也さんのお父さんなんですか?」
「そう。狼神だから、一応ここの主なんだ。狼神にはなかなかなれないから」
「ふーん」
昔、あやかしが神に昇華するにはいくつかの条件があると、教えてもらった。邪鬼をやっつける力が強いことはもちろんだけれど、それ以外にも大事なことがあるらしい。そのひとつが〝生涯でひとりと決めた相手と、命をかけるほどの強い思いを通じ合わせる〟ことだと教えてもらった。
(生涯でひとりと決めた相手と命をかけるほど強い思い、か……)
狼神様になるほど強くなるのはきっととても難しいし、生涯でひとりと決めた相手と巡り会い、思いを通じ合わせるのはもっと難しいことだろう。
陽茉莉は自分の手を握って横を歩く相澤をうかがい見る。きりっとした目元と高い鼻梁、少し薄めの唇が黄金比で配置された横顔は、びっくりするくらい整っている。そして、相澤が見た目だけでなく内面も素敵であることを陽茉莉は知っている。
(本当に、嘘みたいだなあ)
この人が愛している相手が自分であることが、なんだか信じられないような気がしてしまう。けれど、相澤が陽茉莉に見せてくれる愛情はすべて誠実で、裏表がない。
(礼也さんのお父さんにも、祝福してもらえるといいな)
彼のことが心から好きだからこそ、彼の大事な人からは祝福されたい。