その日も雨だったのを記憶している。
 僕は雨男だ。
 幼稚園の入園式に行く途中、ガードレールの無い交通量の多い道端で大きな水溜まり。
 避けようかどうしようか迷っていたら、クラクションが鳴った。
 振り返った瞬間・・・水も滴る可愛い子・・・とはいかなかった。
 泥水が跳ね、新品の園児服は、工事現場で働く人みたいになった。

 雨は嫌いじゃないが、雨の日にいい思い出はない。
 唯一、うれしかった経験は、彼女に逢えた時・・・
 でも、最終的には悲恋の始まりだった。

 僕は、郵便配達をしている。
 そう、郵便配達員だ。
 高校を出てすぐ働き始めた。
 きっかけは高校生の時、年末年始の短期で年賀状のアルバイト配達員を経験したことだった。

 今、郵便なんて時代遅れかもしれない。
 ネット社会になって、簡単にメッセージや意思の伝達を手っ取り早く簡潔にすませられる。
 いずれ、失業するのかな。なんて時々不安になる。

 でも僕はこの仕事が好きだ。誇りに思っている。
 僕は、実は免許を持っていない。
 上司には、「早く免許取れよ!」と催促されてる。
 「どうやって配達してんの?」
 「うん? 飛脚!」って、友人に答えたら、口聞いてくれなくなった。

 足腰には自信がある。
 高校の時は登山部だった。部員一人。顧問一人。
 顧問の山田先生はひと回り年上の女性だった。
 二十歳の時に、三十近い年上の妻子持ちの教授と恋に落ち、息子がいると話に聞いた。
 息子とは会ったことはない。
 僕が、高校を卒業する時、先生は退職した。
 卒業式の時、山田先生に呼ばれた。
 同じクラスになったことはなかったが、サッカー部の司令塔で、女子から一番人気でイケメンの村上君という男が居て、山田先生が彼の担任だった。
 村上君はJリーグチームにスカウトされ、プロ選手になる予定だと知っていた。

 山田先生はこっそり僕の耳元で囁いた。

 「村上君、ゲットしちゃった。女の子達には内緒ね」

 僕は、山田先生と登山部時代、何度も山小屋に二人きりで泊まったことがある。

 間違いが起きた事は一度もない。
 僕は、間違いを期待していたが・・・
 ほんの少しだけ、山田先生に興味を持っていた。
 何かが起こればいいなあ・・・と。
 仄かな恋心は、卒業式当日に打ち砕かれた。

 その日も、雨が降っていた。

 僕は、卒業式を最後に山田先生には会っていない。

 雨の中、傘もささず、得も言われず思いっきり自転車で帰り道を駆け抜けたのを覚えている。
 雨の中、自転車を漕ぎながら、卒業して、四月から自転車で走りまくる。人に思いを届ける仕事に就くんだ! SNSやツイッターなんかには負けない! と強く思い込んだことは忘れていない。

 運命のその日、僕は同僚が体調を崩し二人分の配達量を上司から押付けられた。
「パワハラかよ」と思いながら、雨降りだったので妙に気持ちが昂り、あっさり引き受けてしまった。

 雨の中の配達は、晴れの日よりも、うんと神経を使う。
 郵便物は体を張って守る。
 少しでも雨滴に浸されないように。
 
 一つの配達を終え、次の配達先を確認する。
 住所表記を見て、氏名を確認した。

 その宛名を見た。目が止まった。
 もう一度最初の一文字目から最後の文字まで見た。
 もう一度見た。
 何度も何度も見た。
 僕は降りしきる雨の中、上着の胸のボタンを上から一つずつ開け、
 その宛名が印字された郵便物を服の内側に仕舞いこみ、胸のボタンを閉めた。
 一番上のボタンだけ開いたままにして・・・

 僕は本が好きだ。
 子供の頃は絵本や童話が目を癒してくれた。
 中学・高校と小説を耽読した。
 僕はつくづく独りが好きなんだと自覚する。
 小説を読み、山を登り、郵便を配達する。
 五人で一冊の本は読まないし、二人三脚で郵便は配達しない。
 ハイキングは複数人数でするかもしれないが、山を登り切れるかどうかは個々の体調や力量による。基本一個人の脚力に掛かっている。マラソンと同じだ。

 一人、高校時代から好きな作家が居た。
 彼女は同い年だった。
 高校一年の時、文壇に天才少女現るともてはやされた。
 翌年、史上最年少で芥川賞を受賞した。
 高校在学中の少女が原稿用紙五百枚の長文を完成させ、人物とストーリーを巧みに描き、読み手を堪能させる。
 本当に女子高生? 本物? ゴーストライターがいるんじゃないの?
 出版界のやらせ?
 様々な思惑が頭をよぎったが、授賞式の映像を見て、制服姿のあどけない、ちょっと照れ屋な女の子が、焚かれるフラッシュの隙間の中で真っ直ぐ前を見据えているのを目撃して、心が静まり、遠い彼方の同い年の人間がこの世のどこかに存在していると、ちょっぴり悔しくなった。

 その日、窓の外を見ると、やっぱり空から雨粒が幾つも滴り落ちていた。

 彼女の名は、「飛鳥 胡桃」。
 同じ字体で、本名とペンネームを使い分けている。
 本名は、「アスカ クルミ」、ペンネームは、「トブトリ コトウ」
 何で使い分けたんだろう。
 何かの雑誌のインタビューでそのことに触れていたが、彼女の紡ぎ出す文章が衝撃過ぎて、どっちでもよかった。

 その日、雨の中、まだ配達件数は三分の一程度残っていた。
 本来、郵便配達は効率性の観点から、ルート順が基本だ。
 彼女宛の郵便物は普通郵便ではなく、書留だった。
 印鑑か署名をお客様から頂くのが前提だ。
 お客様は、「トブトリ コトウ」こと「アスカ クルミ」だ。
 雨の中、自分のテリトリーの範疇の中で、イレギュラーな行動を取った。
 サインが欲しかったからだ。
 署名とは別に、いちファンとして。

 コンプライアンスがどうのこうのとやかく言われるご時世だけれども、人間は感情の生き物だ。理屈で物事は片づけられない。その思いが確固たる信念として僕の人生哲学を少しづつ形成していったのは誰あろう彼女が描く、小説の主人公達だった。
 かっての天才少女作家、今でもまだ二十五歳なのだから充分若き天才と呼ぶにふさわしいのだが、彼女は既にキャリア十年以上。十二分に中堅からベテランと呼ばれる域に達する程、作家として成熟していた。

 彼女に郵便物を配達しに行く中で、
 『自らの思いも届けたい』
と、強い欲望が心の中に芽生え始めた。

 お天道様に、気持ちの増幅を見透かされているのか、雨足が徐々に強くなり、自転車を漕ぐスピードが落ちて行った。
 彼女に出会う前にクタクタになってしまう。
 雨が止み、晴れ間が訪れることを願った。
 上空を見上げた。
 どんよりとした厚い雲が視界が見渡せる一帯全てを覆い、光明は見出さなかった。
 全ての配達を終え、残り一件となった。
 周囲は薄暗く、雨の中、吹き荒ぶ風が骨身に染みた。
 上着のボタンを開け、衣服の中に忍ばせてあった。『飛鳥 胡桃』宛の郵便物を確認した。

 冷たかった。

 雨滴からは守り抜いていたけれど。

 何かこれから遭遇する出来事が、真冬の酷寒の地で、遠路はるばる訪れた訪問者を、ぞんざいに扱う予兆のような気がして、足取りが重くなった。

 飛鳥 胡桃 の家の前に着いた。
 周囲を覆う塀の至る所から蔦や楓が、訪問者を吟味し、監視しているように思えた。
 インタフォーンを鳴らす前に、懐に収め、温めていた「飛鳥胡桃」宛の書留郵便をいま一度目視確認した。
 頭上を見上げると、防犯カメラが、こちらを警戒するように睨みを利かせていた。

 僕は、「フッ~」と一息溜息をついた。
 周囲の外灯に灯が灯っていたが、降りしきる雨脚が、照り映えるはずの明かりを遮り、周りの景色を曇らせ、不確かな雰囲気を漂わせていた。

 インターフォンに手を伸ばした。

 手は震え、悴んだ指が、インタフォーンに触れる間際、ポイントが合わず、指が滑り、中途半端な押し方になってしまった。
 嫌がらせのような「ピンポンダッシュ」と間違われないかと、初っ端から出鼻を挫かれた心持になり、身が縮む思いで反応を待つ状況に自ら追い込んでしまった。

 心の奥底では下心を内含していたとしても、僕は仕事で、「飛鳥胡桃」宅を訪問している。配達員の制服を防犯カメラに向かってさり気なくアピールし、インターフォンに耳を近づけた。
 しばらく応答を待った。
 時が過ぎた・・・
 周囲を雨音だけが支配している。
 上目遣いに、防犯カメラをチラ見した。
 カメラの向こうで、僕を見ている、視線を感じる・・・
 確証はなかったが、僕は雨男だ。雨は僕に力を貸してくれる。そう思い込むことにした。
 今度は、ごく自然に勢いよくインターフォンを押した。
 インターフォンの奥で微かな物音がした。
 耳を澄ませる。

 「はい・・・」

 ごく普通の、少し気怠そうな、それでいて邪心のない、年相応の女性の声が聞き取れた。

 「飛鳥さんですか?」

 「どちらさんですか」

 「郵便局です。書留です」

 「初めての方ですか?」

 「はい?」

 「ウチに配達来るの」

 「担当が今日休みでして、代わりのものです」

 「ウチ、必ず事前連絡お願いしてるんです。宅急便の方とかもそうお願いしてるんで」

 「申し訳ありません」

 「ポストに入れといてもらえませんか?」

 「すいません。書留なので、印鑑かサインをいただきたいんですが」

 「写メ取って画像送れません? その画像にサインして返信しますので」

 「申し訳ありません。そういうサービスは行っていなくて」

 「・・・」

 「このやり取りが事前連絡、というのは駄目ですか。突然の訪問が不味ければ、また今晩か明日にでも改めてお伺いします。夜は21時まで。明朝は9時から訪問可能です」

 「貴方、本当に郵便局の人?」

 「はい。局員の『コウノ ジュンキ』と申します」

 「漢字でどういう字をお書きするんですか」

 「鴻巣市の鴻に、野原の野。純粋の純に、輝くという字一文字です」

 「身分証持ってる?」

 「はあ」

 「防犯カメラあるの分かる?」

 僕は、上を見上げ、防犯カメラを見つめながら、

 「はあ」と生返事を返した。

 「身分証、防犯カメラに出来るだけ近づけて提示して」

 僕は、降りしきる雨の中、傘をさしたまま身分証を提示する。

 「傘が邪魔でよく見えない」

 僕は、傘をその場に放り捨てた。

 身分証を真上の防犯カメラめがけて翳す。

 上空から降り降りる雨滴が、味気ない炭酸のように目に注ぎ、浸み込んだ。
 眼球の中は急に冷やされ、目頭が、冬場手袋をせずにさらされた指先と同じよう感覚を覚える痛みを生み出した。

 しばらく彼女から返答のない時間が過ぎた。

 その間、ずっと腕を上げて、身分証を翳し続けた。

 指先の感覚が薄れてきた・・・

 「鴻野 純輝さんね。郵便局に問合せしたわ」

 僕は彼女の声を耳にして、力なく腕をゆっくりと下ろした。

 「今行くから。ちょっと待ってて」

 僕は傘も差さず、その場に佇んだ。

 やがて、固く閉じられた一枚板の木製扉の中段上あたりに設けられた小窓が開いた。
 中から、飛鳥胡桃が顔を覗かせた。
 梅雨時に目を奪われる、芯のしっかりした、紫陽花の花のような雰囲気を醸し出していた。
 扉は開放してはくれなかった。
 こちらは男だ。
 まだ、きっと警戒しているのだろう。
 彼女は独り暮らしだと、何かのインタビュー記事で読んだことがある。
 今日の処は、小窓越しのやり取りで我慢せねばと、胸の動悸を脇を閉める力を利用して必死に体を絞るように抑え込んだ。

 書留を手渡した。

 かすかに指先が触れた。

 僕の指先が触れると、微かに彼女は言葉を発した。

 「冷たい・・・」

 彼女は一瞬驚く表情を見せたが、僕は業務中との意識が頭の片隅に働いていたので、事務的に、かつ無表情を貫いた。
 無論、心の奥底は昂っていたが。

 「サインをここに」

 彼女にペンを手渡そうとした。

 ペンが雨滴で濡れていたので、一瞬、掌で拭き取ろうと意識が傾いたが、咄嗟に行動を変え、制服の一部分を手に取り、服の布部分をペンにあてがい、水滴を丹念に拭き取った。

 彼女は僕の動作を、ただ黙って見つめていたが、僕と接して初めて興味を示す目元の緩みと頬の波打つ表情の解放具合を僕に提示してくれた。

 彼女がサインし始めた。

 この手の動きが創作を導き、読者を惹きつけてやまないストーリーを生み出しているのかと思うと、寒気も相まって、ブルっと震えが上半身から下半身に伝播した。

 サインを書き終え、彼女は、ペンと郵便局控え分を小窓から雨が降りしきる外界へ差し戻した。

 僕はペンと控えを受け取った。

 彼女は、「ご苦労様」の言葉を残し、
 僕の姿に配慮することなく、小窓を閉めた。

 とりあえずサインをもらうことは出来た。
 私的な内容のサインではないけれど。
 
 僕は傘を拾いあげた。
 傘は雨水が溜まっていた。
 傘先を上向きにして溜水を地面に落とし、そのまま傘を差した。
 傘の表面にへばり付いた水滴の滴がポタポタと、僕の頭に降り注いだ。
 気付くと、「飛鳥胡桃」のサインに水が滲み、文字が歪んで見えた。

 僕は、自転車に跨り、郵便局への帰路についた。

 「飛鳥胡桃」は恋愛ものを書かない。
 いつも発刊される著作は私小説で哲学的なものが多い。
 彼女の著作を嫌いな人は、文章表現が解りにくいと評す。
 でも、そういう奴に限って物事の上っ面しかみていない。
 彼女の思いは万人には届かないのかもしれない。
 でも、僕にはダイレクトに、シンプルに届いた。そして、受け止められた。
 
 僕の仕事は、人から人に、届け物をする。その届け物には意思がある。

 僕は、また、彼女の家に、差出人の思いを運びにやって来る。
 雨がまた、彼女と引き合わせてくれる。そう信じてやまなかった。
 根拠などない。
 本来、人を好きになるということはそういうことだ。
 僕の思いは彼女に届かないかもしれない。

 もし万一、僕の思いが彼女に届いた時、彼女の紡ぎ出す文章に変化が見られるかもしれない。
 それがいい作品になるか、つまらない作品になるか、今のところは分からない。

 しばらく、彼女に届ける機会は訪れなかった。
 彼女の自宅は、坂の上にある。
 自転車で配達する僕には、担当エリアとして振り分けて貰えなかった。
 僕は足腰には自信がある。『登山部だったので、上り坂はお手の物です』
と、再三再四、上司にアピールした。
 しかし、その都度、『バイクで駆け上がった方が早いでしょ』
 『同じ時間で何件配達出来ると思ってんの?』
と、邪険にあしらわれた。

 その間、彼女の新刊本が発行された。
 僕は昼休み、そして、配達時の小休止に絶え間なく、彼女の力作を読み耽った。
 その都度、以前、遭遇した雨の日の出来事を思い起こし、追慕の念に浸った。

 梅雨時の季節を迎えたその日、朝から天候が不順で、蒸し暑さの中、強烈な紫外線を含んだ陽射しが蜃気楼のように辺りを支配したかと思えば、突如、雷鳴が轟くと同時に、滝のような大雨が稲光を連れて訪れるような移り変わりの激しい時を過ごしていた。

 日勤だった僕は配達を終え、午後三時頃には、郵便局に戻った。
 四時には、仕事を終え、帰路につく予定でいた。

 上司に呼ばれた。
 「今日残業出来ないか?」

 正直、天候も天候だし、御免蒙りたかった。
 飛鳥胡桃宅の地域の担当が出勤せず、連絡がつかないと告げられた。

 僕は平静を装いながらも、目の奥は爛々と輝いていたと思う。

 今から配達ノルマを熟すには、早くとも午後八時頃になる。
 今晩は、昼の天気予報で、氷か霰の恐れありと気象予報士が告げていた。

 雨に嵐・・・窓外を見ると、薄日が差していた・・・嵐の前の静けさと自覚し、ワクワクする思いで、上司の呼び掛けに呼応した。

 出発前に、配達分の郵便物を確認した。
 「飛鳥胡桃」と明記された郵便物を発見した。
 彼女に着信番号を告げる為、郵便局の発信用固定電話で連絡を取った。

 プルルル プルルル プルルル ~
 3コール鳴って、留守番電話に切り替わった。
 僕は、一瞬躊躇し、何も告げず受話器を置いた。

 再度、彼女に連絡を取った。

 プルルル プルルル ~

 2コール、コール音がした矢先、

 息遣いの激しい声が、受話器の向こう側で響いた。

 「もしもし、今日配達の予定ですか?」

 彼女は慣れているようだった。
 郵便局からの連絡と着信番号で判断できる程、番号を熟知しているのだろう。
 有名な小説家が事前連絡を配達前に要求し、電話口で、生の彼女と二人だけの会話を交わし、現地訪問時は、顔まで公開して相対峙出来得るのに、何故、担当は今日休んだのだろう。
 僕には理解し難い、行動であり、出来事であった。
 僕は、まず、名前を告げた。

 「郵便局員の鴻野純輝です」

 「はい、貴方が今日配達に来れられるの?」

 「はい、そうです」

 「引継ぎ受けてます?」

 「えっ~、大まかには」
 (他に何があるんだろう?)

 担当だった同僚は、いったいどれだけ、飛鳥胡桃と二人にしか分かり得ない申し送りを取り決めたんだろう・・・
 下手なことは言えない。と直感したので、彼女の様子を窺った。

 「何か言ってくれます?」

 「何かとは?」

 彼女は大きく溜息をついた。
 その溜息を電話越しに聞いた瞬間、彼女の心が離れて行くのを感じた。

 僕は明らかに動揺した。テンパっていたが幸い、取り繕うことなく正直さが前面に出て、形成が変わった。

 「すいません。ちょっと緊張してしまって。僕、読書が好きで」

 「そう・・・なの?」

 「はい、小説が好きで。よく読んでます」

 「どんな本を」

 「飛鳥、いえ、お客様の本をよく読まさせていただいて」

 (職権乱用だ。言った後、彼女の怒りを買うかもしれないとあせった)

 「すごい」

 「えっ?」

 「ちゃんと引継ぎされてる。完璧に」

 (僕は思いを巡らした)

 「しかも、アドリブまで加味されてる。神対応」

 「はあ」

 「今、上司の方、近くにいる?」

 「・・・居りますが、何か不愉快な思いをさせてしまったのなら申し訳」
 「誰がそんなこと。私の気分に水差さないで」
 「すいません」
 「謝らなくていい」
 「畏まりました。上司に替わります」

 直属の上司が彼女と会話している間、会話の中身が気になったが、上司はただ、数回相槌のような返事をするだけで、傍から見て判別可能なワードは見受けられず、五里霧中の状態でその場に立ち尽くしていた。

 上司に呼ばれ、我に返った。

 「鴻野に替わって欲しいと。それとお前、担当変更だ」

 「えっ?」

 「早く出ろ。お客様を待たせるな」

 言われるまま、受話器を握った。
 手に汗を掻いているのが、自分でも認識できる程、怯えの感情が自然と湧き出てくる。恐る恐る、受話器に唇を近づけた。ただ心なしか、喉は引き気味で、声を発するのを取り止めたい、と潜在意識が働いていた。

 「もしもし、鴻野ですが」

 「上司の方に許可して貰いました。今日から私の専属担当でお願いしたいのですが」

 「専属とは・・・?」

 「貴方に配達して貰いたいんです。私宛の郵便を。私から誰かに送る郵便を」

 電話口の向こうの彼女が、映画の主人公のセリフのように聞こえた。

 「私でよろしいんでしょうか?」
 と心の内とは反対の気持ちの言葉が飛び出した。
 言いながら少し後悔した。

 「嫌なら別にいいけど」

 「いえ、イヤでは。気持ちを損ねてしまったのならすいません」

 「じゃあ、来てくれます?」

 「はい、ご指名とあればお伺いします。ご指定の日に」

 「今日は何の配達があるか分かります?」

 僕は、飛鳥 胡桃 宛の郵便物を確認した。
 今日は、普通郵便が3通、レターパック1件・・・

 「レターバックは、直接手渡して欲しいんですけど」

 「はい、お手渡しが原則です。あと、国際郵便が1通」

 「国際郵便・・・そう。とにかく分かりました。何時頃来てくれます?」

 「逆に何時頃がご都合が」

 「特に。ただ、今、新作の構想に取り掛かっていて、夢中になっていると、インタフォーンの音に気付けないかも。だからあらかじめ来る時間を指定して欲しい」

 「夜遅くなってもいいですか?」

 「夜遅くって大体何時頃?」

 「遅くても午後八時過ぎです」

 「夜八時ね。じゃあ、それでお願いします」

 「お伺いする少し前に、事前連絡入れた方が宜しいですか?」

 「別にどちらでも。連絡して貰えるならそうするけど」

 「それでは、ご連絡します。現場に出ているので携帯電話から連絡しますので」

 「番号教えてくれる? 私知らない番号は出ないので」

 「畏まりました。番号は・・・」

 (この時、だった。僕の心に小悪魔が宿り、計算としたたかさといやらしさが入り交じり、道を踏み外した)

 「080ー○○○○・・・」

(僕は自分の個人携帯の番号を彼女に伝えた。その間、郵便局から支給されていた業務用携帯は、上着の胸ポケット奥深くに眠り、ただ黙って、おとなしく僕の感情に従った・・・)

 「この番号で着信があったら出るようにします」

 「よろしくお願いします」

 彼女が電話を切るのを確認して、僕は固定電話機の受話器を置いた。

 上司が郵便物の仕分けをしながら、時折、僕の様子を見つめていた。

 僕は、これから配達する郵便物を束ね、自転車用荷台篭に郵便物を納入した。

 彼女宛の郵便物を束の一番真ん中にスルりと忍ばせ、さりげなく置いた。

 上司は黙々と仕分けをしていた。

 僕は上司に近付いた。

 「今から行ってきます」

 上司は、僕の目を見て、ただ黙って頷いた。

 「今日これから回る地域は僕担当ですか。明日から?」

 「あ、いや。飛鳥胡桃の家だけだ。明日から」

 「はあ・・・」

 「あのエリアを全て担当したいなら、早くバイクの免許取れ」

 「乗り物は苦手です」

 「自転車だって乗り物だろ」

 「エンジンを積んでる乗り物です。ガソリンの匂いは苦手で」

 「はあ、お前冬場灯油扱わないの、ストーブとか焚くのに灯油缶とか弄るだろ」

 「エアコンの暖房を利用してます」

 「フン」

 (上司は軽蔑の眼で僕の視線を抑えつけ、心の奥底に後々まで残り得る傷を突き 
 刺した)

 郵便物の納入された荷台篭を運び、駐車場に出た。
 雲行きは怪しく、遠くで雷鳴が轟き、生温い風が吹いた後にある一部分の空間で冷気が流れる風が体に差し込みながら、通り抜けた。
 僕は、体を差し抜けた風が、向かいゆく流れを見つめた。
 風の吹き向かう方角には坂があったが、風はいとも簡単に、その坂を駆け上がっていくように感じた。
 坂の上には、飛鳥 胡桃 の家があった。
 彼女も、今私の中を生き過ごした風のように、いとも簡単に駆け上がっていったのだろうか?

 僕は、今、小説を書いてみたいと思った。

 上空を見上げると、雨滴がポツリ、ポツリと舞い降り始めた。