賑やかな教室。
9月10日(水)日直:東山・沢多 と書かれた黒板がある。朝から使い古されている黒板は、チョークをたっぷりと染み込ませていた。次使うときは黒板消しを綺麗にしておかないといけないとな、と思いながら、窓の外の景色を眺めた。
空いている窓から吹き付けてくる風にのって、カーテンがヒラヒラと揺れている。
夏場ならば暑くて仕方がないが、秋口になると窓際の席はほんの少しばかり涼しくなって、好ましくなる。
なんせ、この教室にはクーラーがついていないのだ。
とくに今年は残暑だと言われていたためか、9月だというのにも関わらず、まだ蝉の鳴き声が聞こえる。
あーあ、はやく秋らしくならないかな。
まるで鮮やかな風景画を切り取ったような空の青に浮かぶ積乱雲。山々をはるかに超えて、天高く伸びていた。
しばらくぼんやりと頬杖をついていたら、とつぜん、ぶわっと強い風が吹き付けてくる。
その拍子に読んでいた小説がパラパラパラ!と捲れていってしまい、いったい自分がどこまで読んだのかが分からなくなってしまった。
しまった。栞をちゃんと挟んでおくべきだった。
2章までは読んだな。いや、3章までは読んだか?
困った。この本にかぎっては、好きすぎてもう何度も読んでいるから内容を覚えてしまってるんだよな。新しい本のように"読んでいないところ"がないため、余計にややこしいことになってしまった。
いっそ、また最初から読み直すか…。
2時間目の授業が終わった休憩時間に、普段どおり読書をしていると、
「──はい、東山くんにも飴あげる」
セーラー服の"白"がいきなり僕の視界に飛び込んできた。
「あははっ、お前マジやめろって!」
「スーパーサンダー、ラリアットォォ!」
ミーンミンミン。
……ミーンミンミン。
クラスの雰囲気はまだ夏休みであるかのようだ。授業がはじまったことを受け入れられず、依然としてどこか浮き足立っていて、ふわふわしている。
それもそうだ。秋は学校行事が盛り沢山だし、夏休みの延長のような感覚があるのかもしれない。
教室の後方でふざけ合っている男子が、ガタンと派手に机にぶつかった。
「ちょっとぉー、男子ぃ? さっきからうるさーい!」
「あー? なんだようぜぇー」
「もう少し静かにできないの? これだから男子は……」
「そういう女子こそネチネチしてて無理なんだけど」
真ん中の席で数人、集まっていた女子たちが迷惑そうに眉を顰めているのが見えた。
──そんな光景を、どこか他人行儀に見つめている僕。
ああやってクラスメートと一緒になってはしゃぐのは苦手だ。微笑ましい、とは思うけれど、僕はこうして、教室の隅っこで本を読んでいるくらいが性に合っている。
そう思いながら再び目の前にいる彼女へと、視線を向けた。
「ちなみにそれ、数量限定のモーモーミルクキャンディだからね? よぉーく味わって食すように!」
「モーモー……? あ、えっと、ありがとう」
沢多さんはクラスの人気者だ。
対して、読者に励んでいるだけの陰湿な僕とでは、月とすっぽんほどの差がある。もともと、人と関わることはそんなに得意なわけじゃないというのに、相手がクラスで目立っている女の子となると、余計に萎縮してしまう。
沢多さんとは当然、これまでもまともに会話なんてしたこともなかった。だからこれは何事だろう?とドキリとしてしまう。
僕の心情をあえて気にしていないのか、沢多さんはマイペースに距離を詰めてきた。
え、え……。これ、どうしよう。
パッケージに牛のイラストが書いてある飴をひとつ貰ったが、それをすぐ口の中に入れるか入れまいか迷った。
沢多さんって誰にでもフレンドリーなんだな。
悲しい話かもしれないけれど、思えば、休み時間にお菓子を分けてもらうなんてこと、これまでにしたことがなかったかもなあ。
もちろん、自分で買ってきて休み時間に食べることもない。
僕はしばらく、牛のイラストが描かれたパッケージを見つめた。
2学期に入ってからの席替えで、クラスの人気者である沢多奈央さんが、僕の前の席になった。
窓際の一番後ろの席が僕の席。その前が沢多さん。
まっすぐ胸の上まで伸びている黒髪に、はっきりした目鼻。美少女という言葉がよく似合う人。
僕なんて恐れ多くてとてもじゃないけれど話しかけられたもんじゃない。かといって、黙って眺めているのも烏滸がましい。そんな彼女が、僕に飴を分けてくれた。
半袖のセーラー服から伸びている白い腕に目があったところで、慌てて視線を逸らした。
「ねえ、それ何の本?」
沢多さんが不思議そうに問いかけてくる。
「え?」
「東山くんって休み時間もずっと本を読んでるよね」
「ああ……変、かな」
どこを見て喋ったらいいものか。綺麗な瞳を直視することができず、僕は俯いたまま口を開いた。
「あはは、そんなこと言ってないじゃん。ただ純粋に面白いのかな〜って思っただけだよ」
どうやら、椅子に座ったまま後ろを向いている沢多さんが、僕の机で頬杖をついているらしい。
ど、どきどきする!
どうして僕の机に頬杖を?
なんせ、僕はこれまでに女子とこんな距離で話したことなんてないのだ。しかも相手があの沢多さんなのだと思うと、ことさらに緊張してしまう。
「で、なんていう本?」
沢多さんは、僕の顔を覗き込むようにしてくる。
なんだかとても視線を感じる。僕みたいな陰湿な人間が読む本のことなんて、沢多さんみたいな子が気になるものなのか。
恥ずかしくなりながらも、僕は意を決した。
「コナン、ドイルの…"バスカヴィル家の犬"って、本だよ」
「へえ〜コナンドイル? どんな話なの」
「どうって、よっ、よくある……推理小説だけど…」
「推理小説!? すごーい!」
そ、そんなにすごい?
推理小説を読んでいるだけで?
快活な女の子は、推理小説なんかよりもSNSや動画アプリが好きなんじゃないのかなと思っていたから、沢多さんの反応は意外だった。
すっかりどこまで読んだかも分からなくなってしまった小説に、栞を挟む。
この桃色の桜の柄の栞は、人からもらったものだ。
「なんか、推理小説ってワクワクしてカッコイイよね」
ちらり、勇気を出して視線を上げると、きらきらした宝石のような瞳があった。
「さ、沢多さんもよく読むの?」
僕がぎこちなく問いかけると、沢多さんはケロッと笑う。
「ん〜、私は読まないけどっ」
「なっ、なんだ、よ、読まないんだ」
「でもコナンドイルって有名でしょ? だから飽きずに読めそうかも」
そんな沢多さんを見て、僕もうれしくなってしまった。
……そうなんだよ!
時間も忘れて没頭してしまうんだ!
「コナンドイルは面白いよ。話の中に緻密な伏線が張り巡らされていて、それが終盤にかけて綺麗に回収されるのが素晴らしい。分かりやすく翻訳されている小説もあるからそれを読むといいと思う」
つい、僕は食いつくように反応した。
「ていうか、ナナの彼氏がこの前ぇ〜」
「えぇー! それマジ? ありえなくない?」
依然、教室の中は賑やかだった。
少年漫画の最新話がどうだった、と白熱している男子や、恋バナというもので盛り上がっている女子。
そんな中で、沢多さんはその誰にも混ざることなく何故か僕と会話をしていた。