翌日、家を出たところに例の子犬が待ち構えていた。

「ねーねー昨日はどうだった?」

どうせ見ていたくせに、と思いながら

「別に。行っただけ無駄だったかな」

とだけ答えておいた。あまりにも屈辱的な敗退に、心をえぐられたことは内緒にしておこう。死神なら思考を読めそうな気もするが、そんなことは正直どうでもいい。

「なら、春夏ちゃんに手伝ってもらったらいいんじゃないかな」
「だってあの子頭よさそうじゃない。きっと強い味方になってくれるんじゃないかな」

急に何を言い出したかと思った。でもよく考えてみればある意味有効な手段かもしれない。
なんたって俺は春夏の弱みを握っている。写真を出して少し脅せば言いなりにさせるなんてお茶の子さいさいだ。

クラスの中心、主犯格であるならば、共犯の昭彦の情報が引き出せるかもしれない。

それでいいのか、俺には分からないけど。

「いい考えだな。今日、呼び出してお願いしてみるよ。」

適当にノートのページを破り、置手紙を書く。

「今日の放課後、東校舎裏に来てくれ。大事な話がある。長澤」

確か木曜は部活動がないはずだから、人は来ないだろう。
あいつも俺の名前を見たら、ちゃんと来るに違いない。

下手に動けば、そこに待っているのは停学処分だからな。
手紙を半分に折って春夏の靴箱に突っ込み、牢獄に続く階段を上った。

午後になり、いつの間にか外は雨が降っていた。
降水確率30%を甘く見てはいけなかったようだ。

終業のチャイムと同時に、慌てて帰る生徒を横目に見ながら東校舎へ向かう。
雨はだんだん強くなっていき、止む気配もない。
帰っててもおかしくはないなとあれこれ考えていると、後ろから声をかけられた。

「長澤、何の用だ」

特徴的で、威圧感を感じる女声。
振り返ってみると、折り畳み傘で顔が隠れていてよく見えないが、春夏がいた。
俺を呼び止めた声は、表向きは強がっているが、恐怖心を隠しきれていない。

「二度と関わるなって言ってたくせに」

自分の無計画さと、勢いを強める夕立に腹が立つ。しかしそんなこと気にしていられない。

「なら訂正しよう。話は単純。この俺に手を貸してくれ。昭彦を説得してほしいんだ」

「は?今更なに言ってんの?」

「そのままの意味だ。俺は君と同じく昭彦にもイジメをやめてほしい。俺一人で説得しに行ったが無駄足だった。春夏、君から言ってくれれば少しは変わると思うんだ。頼む」

「……そう」

これはいける、と感じた刹那

「断る」

あまりのそっけなさに、返答に困った。
なぜだ。俺はあいつの弱みを握ってる。いざとなればどうとにもなるはずなのに。

「そりゃあ、あんたみたいな底辺が昭彦のとこ行ったってマトモにとりあってくれないでしょうね」

昨日あれほど落とし込んだはずなのに、どうして。
かといってここで折れるわけにはいかない。なんたってやってやる。プライドなんて昨日ですべて使い果たした。

ビニール傘を横に放ると、地面に両膝をついた。続いて両手も。

「どうした。ついに狂いだしたか」

もう何を言われたっていい。後戻りできないところまで来てしまっているんだ。
頬を伝っているのは、涙か雨か。判別をつける暇も感覚も消え去っている。

「本当に、頼む。」

プライドなんてなかった。俺は、俺のためにこれをやっている。嘘のような、本当の言葉が口に出る。

「頼れるのは、君しかいないんだ。」

地面に頭を垂れ、水たまりとにらみ合う。

どれくらい同じ姿勢でいたのかはわからない。

「......はぁ。」

6時間目、つまらない授業後のようなため息で、現実に引き戻された。
反射的に見上げると、そこには春夏の顔があった。
心なしか、地味に微笑んでいるように見える。

「そこまで言うのなら、手を貸してやっても構わない」

「それに……どうせまた断ったら脅されるんだろう?」

「ほら、立て。泥だらけでみっともないぞ」

彼女の華奢な腕を借り、雨に濡れた重々しい体を引き上げる。

「......ありがとう」

「それで?具体的には何をしたらいい訳?」

「ここまでしておいてあれなんだが、実はまだうまく固まってなくてな」

「そうか。それなら......」

彼女はペンケースから一枚の付箋を取り出す。

「私の連絡先。決まったなら連絡してくれ」

「......ああ」

それじゃあ、と言って手を振って春夏は去っていく。
その瞬間を待っていたかのように、倉庫の陰から死神が飛び出してくる。

「やったじゃーん!結構仲良くなったんじゃない!?」

はたしてこれを「仲良し」として捉えていいのだろうか。

「あとは、そうだなー。もう一人を説得するのに材料が必要だね......」

「それは……帰ってからゆっくり考えることにするよ」

とりあえず今は家に帰らねば。風邪なんか引いて、あとわずかな命を自室のベッドで過ごすなんてまっぴらごめんだ。

とっくのとうに雨は止んでいたが、その空に虹はかかっていなかった。