わたしが呼んだ瞬間、梁井先輩がビクッと肩を揺らして振り返る。わかってはいたけど、あまりに予想通りすぎる梁井先輩の反応に絶望した。自分が頑張ってきたことの無意味さに、しがみつこうとしてきたものの無稽さに泣きたくなった。
やっぱり梁井先輩が振り向くのは、みなみ先輩だけなのだ。
「バカみたい……」
みなみ先輩の姿を探して周囲を見回している梁井先輩を、虚無の目で見つめる。
彼が求めているのはわたしじゃないのに。そんな人を今この瞬間も好きだと思っているなんて。ほんとうに、バカみたいだ。
しばらくすると、梁井先輩がガードレールの上に立っているわたしに気付く。少し離れた場所で驚いたように目を見開く彼と視線が交わった。
「南……!?」
今さらわたしに気付いてくれても、ちっとも嬉しくないのに。河川敷に向かって歩く人の流れに逆らって、梁井先輩がわたしのほうに戻ってくる。
珍しく必死の形相で駆けてくる梁井先輩を見つめながら、わたしは心を決めていた。もう、終わりにしようって。
そばに駆け寄ってきた梁井先輩が、わたしを見上げる。
パーツのバランスが整った彼の綺麗な顔を見下ろしながら、わたしは目を細めてふっと息を吐いた。
「梁井先輩。やっぱりわたしは、『みなみ』じゃなくて、南 唯葉として好きな人の隣にいたいです」
わたしの言葉に、「は?」と梁井先輩が眉根を寄せる。
きっと、梁井先輩はわかってない。わたしが梁井先輩の気持ちに気付いていたことも、必死でみなみ先輩の真似事をしていたことも。わたしが、今どんな気持ちでここに立っているのかも。
「だから、サヨナラしましょう」
そう言って口角をあげたとき、車道を小型のトラックが高速で走り抜けていって。その風圧に煽られたわたしの体が、ガードレールの上でぐらりと揺れた。
「南……?」
目を見開いた梁井先輩が、咄嗟にわたしの手首をつかむ。こんなときなのに、素肌に触れた梁井先輩の指先の温度にドキッとした。もう全部、終わりにするって決めたのに。
梁井先輩に腕を引かれて、ガードレールから歩道側に倒れるように落ちる。
「きゃっ!」と周囲から悲鳴のような声が聞こえて、わたしの身体は正面から梁井先輩に抱き止められた。
甘いムードも何もない。梁井先輩の腕に初めて包まれたのが救護目的というのもなんだか虚しいけど。胸に頭をぐっと押し付けるように引き寄せられて、ドキドキした。
「何やってんの。危ないんだけど。サヨナラしましょうってなんだよ。車道に落ちて死ぬ気?」
梁井先輩の声は少し震えていて。彼の左胸は、驚くほどの速さでドクドクと脈打っていた。
わたしの行動に焦っただけだと思うけど、最後に心配してもらえたことは嬉しい。梁井先輩のほうから、抱きしめてくれたことも……。たとえ、そこに特別な気持ちがなくても。
数秒だけ幸せを噛み締めてから、名残惜しくなる前に梁井先輩の胸をそっと押し返す。
「何言ってるですか、先輩。まさか道路側に落ちるわけないじゃないですか」
にこっと笑いかけると、梁井先輩が戸惑ったように眉尻を下げた。
「わたしはただ、少しでいいからこっちを向いて欲しかっただけです。梁井先輩にフラれたくらいで死んだりしません。いくらわたしが先輩を好きだからって、自惚れないでください」
「……」
笑顔でそう言うと、梁井先輩が綺麗な顔を微妙そうに引き攣らせる。梁井先輩は、何も言わない。ただ、すごく返答に困っているみたいだった。
「心配しないでください。もう、やめますから。みなみになるのも、好きでいるのも……。短いあいだだったけど、梁井先輩の彼女になれて嬉しかったです」
ほんとうは声を出すのだって苦しかったけど、最後は頑張ってちゃんと笑った。
梁井先輩の想う「みなみ」にはなれなかったけど、せめて彼の心の隅に南 唯葉の綺麗な断片が残るように。
わたしはもう、みなみ先輩の代わりではいられないから。そばにいるのが苦しいくらい梁井先輩のことが好きになってしまったから。
わたしはわたしが始めた恋を、ここで終わらせようと思う。
玄関のドアを開けると、暑くて気怠い夏の午後の空気が肌に纏わりついてきた。
昨夜はうまく眠れなかった。熱帯夜だったし。あとはたぶん、後輩の彼女と出かけた花火大会で花火を見ないままに帰ってきたから。
部活でいつものように走れるだろうか。寝不足なせいで体が怠くて、軽量なはずのスニーカーを履いた足が鉛みたいに重い。
照り付ける日差しに目を細めながら駅に向かってダラダラ歩いていると、背後から軽快な足音が聞こえてくる。
「おはよう、アイちゃん。陸上部も午後練なんだね」
後ろからおれの肩をぽんと叩いて隣に並んだのは、同じ高校に通う幼なじみ、喜島 みなみだ。みなみとは幼稚園の頃からの付き合いだが、彼女は暑いときも寒いときも、常にテンションが一定で元気だ。たまに疲れないのかなと思うけど、それがみなみの通常運転らしい。おれは昔から、そんな彼女のことが嫌いじゃない。
日差しも気温もクソ暑いのに、涼しげな表情で軽やかに歩くみなみを見つめていると、彼女がふと思い出したように振り向いた。
「そういえばさ、昨日の花火大会は楽しかった?」
首を傾げたみなみの栗色の髪がふわっと揺れる。三日月型に細められたみなみの目は、後輩の彼女と花火大会に行ったおれを揶揄う気満々だった。みなみのニヤケ顔に、おれは少しだけ気分を害する。
できれば、花火大会の話はあまりしたくなかった。
「さあ、見てないから」
ぼそっと答えて歩を速めると、みなみが「はあ?」と叫んで、追いかけてくる。
「見てないってどういうこと?」
「河川敷に向かって歩いてる途中で別れた。ていうか、フラれた?」
花火を見るために河川敷に向かう途中。突然、ガードレールの上に立って「サヨナラしましょう」と告げてきた、昨日まで彼女だった女の子のことを思い出す。
少しでいいから振り向いて欲しかったと訴えてきたくせに、おれにフラれたぐらいでは死なないと言う彼女は、最後に何かが吹っ切れたような顔で笑っていた。
「何それ。南さん、浴衣着てきてたじゃん。絶対花火大会楽しみにしてたはずなのに、そんな子に行く途中でフラれるって……。アイちゃん、何かよっぽどひどいことしたんでしょ」
「ひどいこと……?」
「ほら、そういうとこだよ。アイちゃん、ぼーっとしてて気が利かないから。南さん、可愛い子だったのにもったいない」
幼なじみがフラれたというのに、みなみは一方的におれの非ばかりを責めてくる。
彼女だった後輩の名字は南といった。「南」としか呼んだことないから、下の名前がなんだったかあやふやだけど。ヤ行で始まる、ちょっと呼びにくい名前だった気がする。みなみの言う「ひどい」ってこういうとこか。
たしかに、ひどいかもしれない。仮にもあの子はおれのことを好きだと思ってくれてたんだから。
だけどみなみが言うように、別れて勿体無いとはあまり思わない。一ヶ月も付き合ったのに、南の顔の印象は薄い。
可愛いかった、のかな……? どうなんだろう。告白されたときは、もっと違う雰囲気だったような気がするのに最近のあの子は髪型もメイクも全部みなみに似てた。
でも、おれに別れを告げるとき、あの子は言っていた。
もう、みなみになるのはやめるって。
いつからバレていたんだろう。おれが、幼なじみの喜島みなみが好きなこと。みなみの彼氏に、いつも嫉妬の眼差しを向けていたこと。
あの子は、みなみが気付いていないおれの気持ちを見抜いてた。そのうえで、みなみの代用品としておれのそばにいようとしていたのだろう。
おれの隣を歩いていたときの、あの子の栗色の髪が揺れるさまや、あまり似合っていなかった濃い目のアイメイク。少しくらい黙ってくれればいいのにと思っていた一方的なおしゃべり。そういう部分的なことは記憶に残っているけれど、それは全部みなみを真似た虚像で。あの子がほんとうはどんな子だったのか、おれには全くわからない。
そんなだから、きっと遅かれ早かれ別れてた。おれはあの子と付き合っているときも、ずっとみなみが好きだったから。
それなのに、あの子に別れを告げられて昨日の夜うまく眠れなかったのは……。未だに少し気怠いのは、あの子の別れ話のやり方が唐突であまり類を見ない方法だったせいだ。
あとは、気温と日差しの暑さのせい。
あの子に興味も未練もないのに、胸がざらついて、いつもより少しだけ息苦しい。
***
花火大会から一週間過ぎた頃、陸上部の練習がサッカー部と一緒になった。付き合っているときから部活中にお互いに目線を合わすこともなかったけど、南はサッカー部のマネージャーをしている。
当然だが、別れて以降、一日一回以上送られてきていた南からのラインがパタリとなくなった。ラインの返信なんて少し面倒くさいと思っていたけど、南からの連絡がなければおれのスマホは静かでおとなしい。
こまめに連絡を取り合うような相手のいないおれのラインには、部活の連絡事項くらいしか届かない。
南は、部活帰りにコンビニで買った新商品のアイスが美味しかったとか、スタバの期間限定フラペチーノを飲んだとか、どうでもいい情報ばかりを送ってきていたけれど。この一週間、どんなふうに過ごしていたんだろう。
おれに別れを告げたあと、浴衣の袖を淋しそうに揺らしながらひとりで帰っていった南。あのあと、落ち込んで泣いたりしたんだろうか。ふと一週間ぶりに、別れたあの子のことが気になった。
加速走、10m+50mを三本走ったあと、水分を補給しつつサッカー部の練習スペースに視線を向ける。
部員達がボールのパス練習をしている場所から少し離れたところに、お揃いの紺のジャージと部活用のTシャツを着た女子が四人固まって立っていた。たぶん、全員マネージャー。特に何をするでもなく、部員達の練習を見ながら雑談している。
四人の姿を左端からざっと眺めたおれは「ん?」と小さく首を捻った。四人の女子の中に南を見つけられなかったのだ。
今日は休んでるのか? でもサッカー部のマネージャーって、五人も六人もいないよな……。
もう一度よく見直すと、四人の中の一番右端の女子がなんとなく南っぽい。っぽい、なんて言い方したら、またみなみに「ひどい」って非難されるんだろうけど。遠目で顔がはっきり見えてるわけじゃないし、一週間前の南とは印象が違うから、一目ではわからなかったのだ。
肩まで届く栗色のロングヘアは顎のラインでバッサリと短く切られていて、髪色も何トーンか明るさを落とした自然なダークブラウンになっている。
「みなみになるのはやめる」と宣言していたとおり、今の彼女は一週間前とは別人だ。
あの子、ほんとうはあんなだったのか。
ぼんやり見ていると、サッカー部の部員のひとりが練習を抜けてマネージャーのほうに歩いていく。見たことのあるやつだなと思ったら、同じクラスの弓岡だった。
二年生の女子マネージャーと何か話したあと、弓岡が南の前で足を止めて、ショートボブになった頭に手をのせる。頭を撫でてきた弓岡に笑い返している南は、案外元気そうだった。
ピクリと片側の頬が引き攣る。
おれと別れて落ち込んでるかもなんて、どうしてそんな自惚れた考えが頭に浮かんだんだろう。おれがいなくても南は充分に楽しそうだ。
女子のほうが切り替えが早いって聞いたことあるけど、南はもうおれのことは忘れて、新しい恋を始めているのかもしれない。たとえば弓岡に、とか。
別れを告げられたことになんの感傷も未練もないはずだった。おれは南のことが好きで付き合っていたわけじゃないから。それなのに彼女の気持ちが他へ向きかけると少し複雑な気持ちになるなんて、自分でも呆れる。
***
二学期が始まってすぐ。部活に行こうとしていたら、一年の女子に呼び止められた。
顔も名前も知らない子だったけど、中庭で話してもいいかと言われて、何の用件か予想はついた。雰囲気的に、たぶん告白。思ったとおり、彼女は赤い顔で「好きです」と真っ直ぐに好意を伝えてきた。
「ごめんね」
告白される前から決めていた謝罪の言葉を口にすると、彼女はますます顔を赤くして「どうしてですか?」と泣きそうな声で問い詰めてきた。
「梁井先輩、南さんと別れたんですよね? 南さんならよくて、わたしがダメな理由は何ですか?」
上目遣いに見上げてくる彼女の口は不満げにへの字に曲がっている。自分に自信があるんだろう。目鼻立ちのはっきりした、綺麗な子だった。見た目だけで言えば、たぶん南やみなみよりも可愛い。
だけど大きな瞳を潤ませる彼女に、おれの心は一ミリも動かなかった。
「……ごめん。誰かと比べて君が良いとかダメとかじゃないし、理由もないよ」
「じゃあ、今も南さんが好きなんですか? フったのって、南さんのほうからなんですよね?」
「そういうことではなくて。今は誰かと付き合おうとか思ってないから」
冷静な態度で断り続けていると、彼女は釈然としない顔を浮かべながらも、とりあえずは一旦引いてくれた。
南と付き合う前は、なぜか顔も名前も知らない女子からよく告白された。南と付き合っているときは、周囲が遠慮していたのか告白される頻度がグッと減っていたけど……。どうやら、おれ達が別れたという噂は風の速さで広まっているらしい。それも、おれのほうがフラれたというおまけ付きで。
噂なんてどうでもいいけど、告白してきた女子に「南さんならよくて、わたしがダメな理由は」と聞かれて一瞬だけ思考が止まった。
彼女に返したように、南が良くて彼女がダメだった理由なんてない。
ただ、初めて南が話しかけてきたときに、「わたし、南唯葉って言います」と言われて、耳が無意識に反応したことは認める。
おれは中学生の頃からずっと、幼なじみの喜島みなみへの片想いを拗らせていて。部活の休憩中に急に声をかけてきた「みなみ」という女子の名字に多少の興味が湧いた。
だけど、それは単純に好きな子と同じ名前の響きに、反応してしまっただけ。南に告白を予感させるような呼び出しを受けた瞬間は、いつもどおり断るつもりだった。
それなのに……。