わたしは何日も前から梁井先輩と花火大会に行くのを楽しみにしていたのに。こんな日も、梁井先輩の世界はみなみ先輩で回っている。

耳に蘇ってくるのは「花火楽しんで」という、みなみ先輩の無神経な言葉。悪気はないとわかっているけど、だからこそ、みなみ先輩の言葉は残酷だ。

梁井先輩が見ているのは今日もみなみ先輩なのに。花火なんて、楽しめるはずがない。

「おれたちも行く?」

みなみ先輩の姿が完全に見えなくなってから、梁井先輩がわたしを振り返る。ようやく目が合った彼の表情は、みなみ先輩を見つめていたときとは違って少し気怠げだ。

もちろん、わたしの浴衣へのコメントはない。お世辞の言葉も出ないくらい、わたしの浴衣なんて、彼の目には映っていない。

帰りたい――。瞬間的に思ったけど、梁井先輩はもう歩き始めている。

わたしから誘っておいて、やっぱり帰りたいなんて言えないか。思わず溢れそうになるため息を飲み込むと、重たすぎる一歩を前に進めて梁井先輩を追いかける。

一緒に歩くとき、わたしはいつも彼女の特権を利用して遠慮なく梁井先輩の横に並ぶ。だけど、今日はなんだか気が引けた。さっきまで浴衣姿のみなみ先輩が立っていた場所に、平然と立つ自信がない。

隣を避けて梁井先輩の斜め後ろに並ぶと、肩越しに振り返った彼と目が合う。一瞬不審げに眉根を寄せた梁井先輩だったけど、すぐに興味なさそうにわたしからふいっと顔をそらしてしまう。

梁井先輩の冷たい対応には慣れている。だから、今さら傷付かない。顔をそらされても嫌な顔をされても、鈍感なフリを装って梁井先輩に話しかけることができる。

だけど今日は、彼の背中に明るく声をかけることができなかった。

もう過ぎたことなのに、待ち合わせ場所に梁井先輩と一緒に現れたみなみ先輩のことを思い出したら息苦しくなってしまって。笑顔で明るく振る舞わなければと思えば思うほど、喉が詰まって言葉が出ない。

わたしが喋らなければ、よっぽどのことがない限り梁井先輩からは話しかけてこない。わたし達は、花火の見える河川敷を目指して無言で歩いた。

河川敷まで続く片側一車線の道路は車通りが多くて、狭い歩道との間がガードレールで仕切られている。

目的地に向かって黙々と歩く梁井先輩とわたしを、同じように河川敷へと向かう人たちが何組も抜いて行く。そのなかには浴衣を着た女の子たちがいて。わたし達のそばで浴衣の袖が揺れるたび、梁井先輩は通り過ぎて行く女の子に視線を向けていた。

わたしの浴衣には目もくれなかったくせに、通りすがりの浴衣の女の子には反応するんだ……。

悔しく思いながら通りすがりの女の子たちを横目で睨む。そうしているうちに、梁井先輩が反応する、ある法則性に気付いてしまった。

梁井先輩が視線を動かすのは、水色の浴衣の子がそばを通るときだけなのだ。きっと梁井先輩は無意識に、水色の浴衣を着たみなみ先輩を探してる――。

もう、ダメだ……。

着崩れないようにと、お母さんにきつめに締められた帯の上から左胸の下を押さえる。帯のせいではないとわかっているけれど、胸がざらついて息苦しくて。今すぐに、胸を圧迫するものを引っ張って取り除いてしまいたくなった。

「梁井先輩……」

少し前を歩く梁井先輩の腕に手を伸ばす。けれど、わたしの掠れた声や伸ばした指先は彼には届かず、車の走行音と周囲の人の話し声にかき消されて溶けていく。

胸に迫る圧迫感でわたしが立ち止まっても、梁井先輩は気付かずに、ひとりでどんどん先に進んでいってしまう。

わたしがついてくることがあたりまえとでも思っているのか、振り返る気配すらない。悲しいけど、仕方がない。だって梁井先輩は初めから、わたしに興味も関心もないんだから。

梁井先輩が興味があるのは、わたしの名前だけ。彼の好きな人と同じ名前だったから、気まぐれに彼女にしてもらえた。こんなチャンス、誰にでも巡ってくるわけじゃない。好きな人の彼女でいられるチャンスを簡単には逃せない。
 
だから頑張ったのだ。梁井先輩がわたしの名前に興味があるのなら、せめて名前(それ)に見合うような彼女になろうって。容姿も性格も、少しでもいいから梁井先輩の理想に近付けて、一秒でも長く彼の視界に留まろうって。

代わりでよかった。梁井先輩が好きな「みなみ」になりたかった。

だけど、ダメだ……。頑張ってみたけど、そろそろ限界。

だって、わたしは梁井先輩の好きな「みなみ」じゃない。髪型やメイクをマネしても、毎日笑顔を絶やさずいても、わたしはどうしたって、梁井先輩の想う「みなみ」になれない。

胸の圧迫感に逆らうように深呼吸すると、わたしは浴衣の裾を膝下から両手で左右に分けて託し上げた。大股二歩で車道と仕切るガードレールに近付くと、下駄を脱ぎ捨てる。ガードレール同士を繋ぐ支柱に片足を載せて、勢いよくそこに乗っかって立つと、通行人たちが少しざわめいた。

浴衣姿で急にガードレールに立ったわたしを、ほとんどの人が見て見ぬフリで通り過ぎていく。車道を紺のミニバンが走り抜けて行き、首の後ろと浴衣の裾を捲り上げた膝の裏に風を感じる。

「危な……」とつぶやく他人の声が聞こえたけれど、どうでもよかったし、危険なことをしている高揚感が苦しかった胸の圧迫感を取り除いてくれた。

背筋を伸ばしてピンと立つと、相変わらずわたしに気付かない梁井先輩の背中が見える。その背中を睨むようにじっと見つめながら、わたしは思いきり息を吸い込んだ。

「アイちゃん……!」

白のTシャツを着た梁井先輩の背中に向かって、思いきり叫ぶ。みなみ先輩が彼を呼ぶときの愛称で。


わたしが呼んだ瞬間、梁井先輩がビクッと肩を揺らして振り返る。わかってはいたけど、あまりに予想通りすぎる梁井先輩の反応に絶望した。自分が頑張ってきたことの無意味さに、しがみつこうとしてきたものの無稽さに泣きたくなった。

やっぱり梁井先輩が振り向くのは、みなみ先輩だけなのだ。

「バカみたい……」

みなみ先輩の姿を探して周囲を見回している梁井先輩を、虚無の目で見つめる。

彼が求めているのはわたしじゃないのに。そんな人を今この瞬間も好きだと思っているなんて。ほんとうに、バカみたいだ。

しばらくすると、梁井先輩がガードレールの上に立っているわたしに気付く。少し離れた場所で驚いたように目を見開く彼と視線が交わった。

「南……!?」

今さらわたしに気付いてくれても、ちっとも嬉しくないのに。河川敷に向かって歩く人の流れに逆らって、梁井先輩がわたしのほうに戻ってくる。

珍しく必死の形相で駆けてくる梁井先輩を見つめながら、わたしは心を決めていた。もう、終わりにしようって。

そばに駆け寄ってきた梁井先輩が、わたしを見上げる。

パーツのバランスが整った彼の綺麗な顔を見下ろしながら、わたしは目を細めてふっと息を吐いた。

「梁井先輩。やっぱりわたしは、『みなみ』じゃなくて、南 唯葉として好きな人の隣にいたいです」

わたしの言葉に、「は?」と梁井先輩が眉根を寄せる。


きっと、梁井先輩はわかってない。わたしが梁井先輩の気持ちに気付いていたことも、必死でみなみ先輩の真似事をしていたことも。わたしが、今どんな気持ちでここに立っているのかも。

「だから、サヨナラしましょう」

そう言って口角をあげたとき、車道を小型のトラックが高速で走り抜けていって。その風圧に煽られたわたしの体が、ガードレールの上でぐらりと揺れた。

「南……?」

目を見開いた梁井先輩が、咄嗟にわたしの手首をつかむ。こんなときなのに、素肌に触れた梁井先輩の指先の温度にドキッとした。もう全部、終わりにするって決めたのに。

梁井先輩に腕を引かれて、ガードレールから歩道側に倒れるように落ちる。

「きゃっ!」と周囲から悲鳴のような声が聞こえて、わたしの身体は正面から梁井先輩に抱き止められた。

甘いムードも何もない。梁井先輩の腕に初めて包まれたのが救護目的というのもなんだか虚しいけど。胸に頭をぐっと押し付けるように引き寄せられて、ドキドキした。

「何やってんの。危ないんだけど。サヨナラしましょうってなんだよ。車道に落ちて死ぬ気?」

梁井先輩の声は少し震えていて。彼の左胸は、驚くほどの速さでドクドクと脈打っていた。

わたしの行動に焦っただけだと思うけど、最後に心配してもらえたことは嬉しい。梁井先輩のほうから、抱きしめてくれたことも……。たとえ、そこに特別な気持ちがなくても。

数秒だけ幸せを噛み締めてから、名残惜しくなる前に梁井先輩の胸をそっと押し返す。

「何言ってるですか、先輩。まさか道路側に落ちるわけないじゃないですか」

にこっと笑いかけると、梁井先輩が戸惑ったように眉尻を下げた。

「わたしはただ、少しでいいからこっちを向いて欲しかっただけです。梁井先輩にフラれたくらいで死んだりしません。いくらわたしが先輩を好きだからって、自惚れないでください」
「……」

笑顔でそう言うと、梁井先輩が綺麗な顔を微妙そうに引き攣らせる。梁井先輩は、何も言わない。ただ、すごく返答に困っているみたいだった。

「心配しないでください。もう、やめますから。みなみになるのも、好きでいるのも……。短いあいだだったけど、梁井先輩の彼女になれて嬉しかったです」

ほんとうは声を出すのだって苦しかったけど、最後は頑張ってちゃんと笑った。

梁井先輩の想う「みなみ」にはなれなかったけど、せめて彼の心の隅に南 唯葉の綺麗な断片が残るように。

わたしはもう、みなみ先輩の代わりではいられないから。そばにいるのが苦しいくらい梁井先輩のことが好きになってしまったから。

わたしはわたしが始めた恋を、ここで終わらせようと思う。


玄関のドアを開けると、暑くて気怠い夏の午後の空気が肌に纏わりついてきた。

昨夜はうまく眠れなかった。熱帯夜だったし。あとはたぶん、後輩の彼女と出かけた花火大会で花火を見ないままに帰ってきたから。

部活でいつものように走れるだろうか。寝不足なせいで体が怠くて、軽量なはずのスニーカーを履いた足が鉛みたいに重い。

照り付ける日差しに目を細めながら駅に向かってダラダラ歩いていると、背後から軽快な足音が聞こえてくる。

「おはよう、アイちゃん。陸上部も午後練なんだね」

後ろからおれの肩をぽんと叩いて隣に並んだのは、同じ高校に通う幼なじみ、喜島 みなみだ。みなみとは幼稚園の頃からの付き合いだが、彼女は暑いときも寒いときも、常にテンションが一定で元気だ。たまに疲れないのかなと思うけど、それがみなみの通常運転らしい。おれは昔から、そんな彼女のことが嫌いじゃない。

日差しも気温もクソ暑いのに、涼しげな表情で軽やかに歩くみなみを見つめていると、彼女がふと思い出したように振り向いた。

「そういえばさ、昨日の花火大会は楽しかった?」

首を傾げたみなみの栗色の髪がふわっと揺れる。三日月型に細められたみなみの目は、後輩の彼女と花火大会に行ったおれを揶揄う気満々だった。みなみのニヤケ顔に、おれは少しだけ気分を害する。

できれば、花火大会の話はあまりしたくなかった。

「さあ、見てないから」

ぼそっと答えて歩を速めると、みなみが「はあ?」と叫んで、追いかけてくる。

「見てないってどういうこと?」
「河川敷に向かって歩いてる途中で別れた。ていうか、フラれた?」

花火を見るために河川敷に向かう途中。突然、ガードレールの上に立って「サヨナラしましょう」と告げてきた、昨日まで彼女だった女の子のことを思い出す。

少しでいいから振り向いて欲しかったと訴えてきたくせに、おれにフラれたぐらいでは死なないと言う彼女は、最後に何かが吹っ切れたような顔で笑っていた。

「何それ。南さん、浴衣着てきてたじゃん。絶対花火大会楽しみにしてたはずなのに、そんな子に行く途中でフラれるって……。アイちゃん、何かよっぽどひどいことしたんでしょ」
「ひどいこと……?」
「ほら、そういうとこだよ。アイちゃん、ぼーっとしてて気が利かないから。南さん、可愛い子だったのにもったいない」

幼なじみがフラれたというのに、みなみは一方的におれの非ばかりを責めてくる。

彼女だった後輩の名字は南といった。「南」としか呼んだことないから、下の名前がなんだったかあやふやだけど。ヤ行で始まる、ちょっと呼びにくい名前だった気がする。みなみの言う「ひどい」ってこういうとこか。

たしかに、ひどいかもしれない。仮にもあの子はおれのことを好きだと思ってくれてたんだから。

だけどみなみが言うように、別れて勿体無いとはあまり思わない。一ヶ月も付き合ったのに、南の顔の印象は薄い。

可愛いかった、のかな……? どうなんだろう。告白されたときは、もっと違う雰囲気だったような気がするのに最近のあの子は髪型もメイクも全部みなみに似てた。

でも、おれに別れを告げるとき、あの子は言っていた。   

もう、みなみになるのはやめるって。

いつからバレていたんだろう。おれが、幼なじみの喜島みなみが好きなこと。みなみの彼氏に、いつも嫉妬の眼差しを向けていたこと。

あの子は、みなみが気付いていないおれの気持ちを見抜いてた。そのうえで、みなみの代用品としておれのそばにいようとしていたのだろう。

おれの隣を歩いていたときの、あの子の栗色の髪が揺れるさまや、あまり似合っていなかった濃い目のアイメイク。少しくらい黙ってくれればいいのにと思っていた一方的なおしゃべり。そういう部分的なことは記憶に残っているけれど、それは全部みなみを真似た虚像で。あの子がほんとうはどんな子だったのか、おれには全くわからない。

そんなだから、きっと遅かれ早かれ別れてた。おれはあの子と付き合っているときも、ずっとみなみが好きだったから。

それなのに、あの子に別れを告げられて昨日の夜うまく眠れなかったのは……。未だに少し気怠いのは、あの子の別れ話のやり方が唐突であまり類を見ない方法だったせいだ。

あとは、気温と日差しの暑さのせい。

あの子に興味も未練もないのに、胸がざらついて、いつもより少しだけ息苦しい。