わたしが告白をしたとき、梁井先輩は「みなみ、だっけ?」と名前を確認してきた。梁井先輩が受け入れたのはわたしではない。きっと、好きな人と同じ記号(なまえ)を持ったわたしだったのだ。

そのことに気付いてから、わたしは少しでも梁井先輩の視界に入りたくて、みなみ先輩(彼の好きな人)に近付く努力をした。

まず少しでも見た目が近付くように、肩まで伸ばしていた髪を栗色に染めた。クラスの中でも大人っぽくてメイクが上手い沙里に頼んで、みなみ先輩に似せたアイメイクを教えてもらった。ついでに眉毛も整えたら、雰囲気がぐっとみなみ先輩に近付いた。

だけど見た目を似せても、梁井先輩はわたしの容姿の変化に何の興味も示さなかった。

梁井先輩が好きなのは、みなみ先輩の見た目ではないらしい。そう思ったから、今度はみなみ先輩がどんな人なのかを観察した。

友達といるとき、彼氏の昌也先輩とふたりでいるとき、梁井先輩に声をかけるとき、どんな表情でどんな仕草を見せるのか。一週間ほど観察してわかったことは、みなみ先輩は明るくノリが良く、よく笑う人だということだった。

梁井先輩がみなみ先輩の明るい笑顔に惹かれたのだとしたら、ものすごく納得できる。だからわたしも、梁井先輩と一緒にいるときは笑顔でいるように心がけた。

だけど、いつも笑顔で明るい彼女を演じても、梁井先輩がわたしに興味を持ってくれることはなかった。努力は全て無駄だった。

付き合いだしてからの一ヶ月、わたしと梁井先輩は彼氏彼女として毎朝一緒に登校している。けれどそれだって、わたしから誘いかけたことだ。

わたしが誘わなければ、梁井先輩から声をかけられることはない。ラインもデートの誘いも全部わたしから。わたしが誘わなければ、梁井先輩との関係は自然消滅する。それくらい、わたしへの彼の態度は冷めている。

今だって、自分のペースですたすたと歩いていく梁井先輩は、みなみ先輩のことを考えているんだろう。

形式的には恋人同士でも、わたしの想いはいつだって一方通行だ。どれだけ追いかけても、わたしの気持ちは報われない。それでも、追いかけずにはいられない。

たとえ一方通行の想いだったとしても、わたしは梁井先輩が好きだから。

小走りで追いかけてシャツの背中ぎゅっと捕まえると、振り向いた梁井先輩と目が合った。こうして無理やり引き止めなければ、彼はわたしを見てくれない。付き合っているはずなのに、視線を合わすことすらままならない。

どれだけ隣にいたって、わたしと梁井先輩の心の距離は縮まらない。いつまでもずっと、一定の距離を保って離れたままだ。

胸が痛い。こんなのがずっと続くなんて耐えられない。そう思うのに、わたしは梁井先輩の《彼女》のポジションをどうしても手離せない。

「南?」

唇を噛んでうつむくと、梁井先輩がわたしの顔をそっと覗き込んできた。

「どうかした?」

梁井先輩の声に、ほんの少しだけ気遣いの色が浮かぶのがわかる。

いつもわたしに興味も関心もないくせに。こんなときばかりわたしを見てくれる。気まぐれな梁井先輩の優しさが痛かった。

「何も。夏休み、楽しみだなーって」

顔を上げると同時にパッと明るく笑って見せると、梁井先輩が無言でわたしを見つめてから、わずかに首を横に傾けた。

「あー、うん。そうだな」

曖昧に頷く梁井先輩の声は、わたしと過ごす夏休みに少しも興味なさそうだし、若干面倒臭そうだ。

「夏休みの行き先の候補、わたしがいくつか考えといていいですか?」
「いいよ、どこでも」
「よかった。楽しみにしてますね」

鈍感なフリをして笑うと、梁井先輩が、ふっと息を漏らしてわたしに背を向けた。

梁井先輩は自分からデートに誘ってくることはないけれど、わたしが誘えばどこでも付き合ってくれる。わたしとデートしててもちっとも楽しそうじゃないけど、「みなみ」という記号(なまえ)を呼べば、胸に燻るみなみ先輩への気持ちが紛れるのかもしれない。

だとしたら、梁井先輩ひどい。

それを知ったわたしがどんな気持ちになるか、少しくらいは想像しなかったのかな。それとも梁井先輩は、本物の「みなみ」以外はどうだっていいのかな。

前を歩く梁井先輩の艶やかな黒髪が揺れるのを、切ない気持ちでじっと見つめる。

梁井先輩が好きだ。陰のある雰囲気の綺麗な顔も。やる気なく喋っているようにしか聞こえない話し方も。いつも遠くばかり見ている黒の瞳も。体温の低い長い指も。わたしを拒絶するみたいな背中も。短めな襟足も。

わたしに見えてる梁井先輩が、全部好き。

だけど、梁井先輩はそうじゃない。

できることならわたしは、あなたが好きな彼女(みなみ)になりたい。

一学期の終業式の朝。駅から学校まで続くなだらかな坂道を、いつものように梁井先輩と並んで歩く。

明日から夏休みだ。嬉しいけれど、しばらくは梁井先輩とあまり会えなくなる。それが淋しくて、わたしは梁井先輩の隣で必要以上に饒舌になった。

駅の改札の前で顔を合わせてから、あれこれといろんな話をしてみるけれど、梁井先輩は相変わらずわたしに見向きもしない。

「先輩、夏休みの予定なんですけど……」

校門が数メートル先に見えてきたところで、思いきって夏休みの話を切り出してみたけれど……。ぼんやりと遠くを見ながら歩いている梁井先輩の耳には、わたしの声なんて届いていない。

梁井先輩の視線の先を辿ると、そこにいるのはみなみ先輩。梁井先輩の世界は、今日もみなみ先輩を中心に回っている。みなみ先輩は梁井先輩のことなんて少しも見ていないのに。

胸に澱む暗い気持ちを、ため息とともに吐き出す。口角をあげて明るく見えるように笑顔を作ると、わたしはぴょんと跳ねるようにして梁井先輩の顔を横から覗き込んだ。

「夏休み、花火大会に行きませんか?」

横から身を乗り出してきたわたしに、梁井先輩が驚いたように一瞬身を引く。

「河川敷の?」
「そうです」

わたし達の住む地域で一番規模の大きいのが、毎年七月の最終土曜日に行われる河川敷の花火大会だ。

浴衣を着て彼氏と花火大会に行くのなんて、憧れ中の憧れだし。もしかしたら普段見慣れない格好で会えば、梁井先輩も少しくらいはわたしのことを意識してくれるかもしれない。それに、好きな人と見に行く花火大会はキラキラした青春の思い出になる。


「花火大会の日、部活入ってますか? わたしは午前練だから、夕方は大丈夫です。先輩は?」

いい返事をもらえることを期待しながら訊ねると、梁井先輩が制服のポケットからスマホを取り出した。ラインを開いて見ているのは、陸上部の練習カレンダーらしい。しばらくジッとそれを見ていた梁井先輩が、スマホに視線を落としたまま「おれは午後練」とつぶやく。

「あ、じゃあ……」

ダメかな……、とションボリ肩を落としかけたとき、梁井先輩が制服のズボンのポケットにスマホを入れながら顔をあげた。

「でも、15時には練習終わるから行ける。花火大会って毎年19時半からだっけ」
「はい、そうです!」

大きく頷くと、梁井先輩が少し面倒くさそうに眉根を寄せる。それでも、「行ける」という返事をもらえたことがわたしにはとても嬉しかった。

「花火大会の日は電車も混むと思うので、できたら早めに待ち合わせしましょ。18時くらいには会えます?」
「大丈夫」
「わかりました。じゃあ、前日にまたラインしますね」

うきうきしながらそう言うと、「待ち合わせ場所だけど」と、珍しく梁井先輩のほうから会話を続けてきた。

「花火メインなら、主会場じゃなくて橋を渡った反対岸で見たほうが空いてると思う」
「そうなんですか」

普段はわたしとのデートに受身で臨む梁井先輩が、自分から何か提案してくるのは珍しい。


「うん。食べ物の屋台はないけどピザとか飲み物だけなら近くの店から手売りで来てくれるし、コンビニもある。反対岸の最寄り駅は普通電車しか停まらない駅だから少し不便だけど、行き帰りもあんまり混まないと思う」
「へえ」

やけに詳しいけど、梁井先輩は主会場の反対岸で花火を見たことがあるのだろうか。それとも、夏休みのことを考えて少しは下調べしてくれていたのだろうか。

後者だったらいいな、と思いながら、梁井先輩の言葉に期待する。

「じゃあ、主会場の反対岸の最寄駅で18時に待ち合わせますか?」
「それでいいよ」

にこっと笑いかけると、梁井先輩が少し目を細める。たぶん先輩は朝の太陽の光が眩しかっただけだ。わかっているけれど、その仕草がわたしに笑いかけて返してくれたように見えなくもなくて。夏休みと花火大会への期待で、胸がときめいた。
 
***

「改札出たところで待ってます」

花火大会当日。約束の十分前に待ち合わせ場所に着いたわたしは、梁井先輩にラインを送った。メッセージはすぐに既読になって、「もうすぐ着く」と梁井先輩からもラインが届く。

もうすぐってことは、次の電車かな。

改札の向こうにあるホームに続く階段を見つめながら、ドキドキと胸を高鳴らせる。

今日の待ち合わせは、いつもより少し緊張する。浴衣を着てきたわたしに、梁井先輩がどんな反応を示してくれるか気になるからだ。

好きになってもらえなくてもいいから、少しくらいは可愛いと思ってもらえればいいな。

緊張を紛らわすために前髪を何度も撫でていると、電車がホームに入ってくる音が聞こえてきた。キキーッとブレーキの軋む音がして、ホームのほうがざわざわと騒がしくなる。しばらくするとベルの音が鳴って、階段から人がたくさん降りてきた。

普段は人の乗り降りがまばらな駅だが、今日は花火大会なので人が多い。階段を降りてくる人の半分くらいは浴衣姿だ。

改札の端に寄って待っていると、梁井先輩が出てくる。

「梁井先ぱ――」

手を振ろうとした瞬間、梁井先輩の後ろから改札を出てくる人の姿に思わず顔が引き攣った。顔の横に手を上げたまま固まっていると、梁井先輩よりも先にわたしに気付いたその人が、にこにこ笑いながら手を振ってくる。

「アイちゃん。南さん、いるよ」

そう言って、梁井先輩の後ろからひょこっと顔を覗かせたのは、みなみ先輩だった。

「アイちゃん、どこ見てるの。あっちだよ」

みなみ先輩が、わたしの居場所に気付かず別の方向を見ている梁井先輩の腕を引っ張って近付いてくる。

胸がずきっとした。

どうして梁井先輩はみなみ先輩と一緒なの……? どうしてみなみ先輩は、あたりまえみたいに梁井先輩の手を引いてるの……? 
 
いろんなことに頭がついていかない。

しかも最悪なことに、みなみ先輩の浴衣はわたしと同じ水色だった。示し合わせたわけでもないのに、まさかの色被り。紫のアサガオ柄の浴衣はみなみ先輩にとてもよく似合っていて、金魚の柄の浴衣を着たわたしよりも随分と大人っぽく見える。


「こんにちは、南さん。浴衣、可愛いー」

ほとんど話したこともないのに、みなみ先輩が親しげに声をかけてくる。

わたしの浴衣が可愛いなんて、お世辞か本音かわからないことを言うみなみ先輩を前に、ヒクリと右目の周りの筋肉が痙攣した。みなみ先輩に褒めてもらったって、少しも嬉しくない。せっかくの浴衣も、みなみ先輩の前では色褪せて、その価値を失う。

みなみ先輩(好きなひと)の浴衣姿を見たあとでわたし浴衣なんか見たって、梁井先輩の心はときめかないだろうから。

「みなみ先輩も一緒だったんですね……」

声を強張らせるわたしに、みなみ先輩がにこにこ笑いかけてくる。

「うん、そう。家出たところでアイちゃんに会ったから、ここまで一緒に来ちゃった」
「家出たところ……?」
「うん、あたしとアイちゃん、同じマンションの同じフロアなの」
「そう、なんですね……」
「アイちゃんと南さんも、この駅で待ち合わせなんて偶然だよね。あたしはここからちょっと行ったところにあるコンビニ前で彼氏と待ち合わせなんだ」
「そうですか……」

笑顔で話すみなみ先輩を前に、わたしのテンションが徐々に下がっていく。

家を出たときに会ったってことは、梁井先輩はここに来るまでずっと浴衣のみなみ先輩と一緒だったんだ……。きっと、楽しかったんだろうな。

チラッと視線を向けると、案の定、梁井先輩はみなみの横顔をじっと見ている。その眼差しに、わたしの胸中で嫉妬の炎が渦巻いた。

仮にも彼女であるわたしを前にして、他の女の子の浴衣姿に堂々と見惚れるなんて。梁井先輩はひどい。それに、彼氏とのデートの前に他の男の子に浴衣姿見せちゃうみなみ先輩だって無神経過ぎる。

「主会場のほうは人が多いけど、反対岸は比較的空いてるからいいよね。屋台はないけど、手売りでピザとか飲み物とか売りにきてくれるし。花火メインなら、こっち側で見るのが絶対おすすめ」
「そう、ですね……」

笑顔で続けるみなみ先輩の話には、そっくりそのまま聞き覚えがあって。わたしのテンションが最底辺まで下がる。

花火大会に行く約束をしたとき、主会場より反対岸のほうが空いていると教えてくれたのは梁井先輩だ。その話を聞いたとき、珍しくわたしとのデートに乗り気になってくれているのかと思って嬉しかったけど、そうじゃなかった。

反対岸で花火を見るのがおすすめだと知っていたのは、みなみ先輩で。梁井先輩は、みなみ先輩から聞いた情報をただわたしに横流しにしてきただけだったんだ……。

巾着の紐を持つ左手を強く握り締めて、うつむく。

きっと今のわたしは、梁井先輩にもみなみ先輩にも見せられないくらい嫉妬で歪んだひどい顔をしてるだろう。

心を落ち着かせるために鼻で浅く呼吸を繰り返していると、ピリリッとみなみ先輩のスマホが鳴った。

「あ、昌也もう着いたんだ。ごめん、あたし行くね。アイちゃんたちも花火楽しんで」

スマホを素早くタップしてラインを返すと、みなみ先輩が下駄を鳴らして慌ただしく去って行く。強張ったままの顔を上げると、紫色のリボン型の作り帯を揺らす、みなみ先輩の後ろ姿が見えた。

梁井先輩は、出会ってからまだ一度もわたしを見てくれない。目の前のわたしではなく、遠ざかっていくみなみ先輩の後ろ姿をぼんやりと見送っている。憂いを帯びた、切なげな眼差しで。

梁井先輩が視界に留めておきたいのは、水色の浴衣を着たみなみ先輩。わたしと見る花火なんて、きっとどうでもいいんだろう。

最低だ。最低すぎて、吐き出すため息すら息苦しい。