****
病院の一件があったせいか、気付いたら学校でもふたりっきりじゃないときにもレンくんは話しかけてくるようになった。
授業中には話しかけてこないけれど、移動授業になった途端にレンくんが声をかけてくるんだ。
「間宮、絵はどこまで描けたんだ?」
「ひゃっ!?」
またも、廊下を歩いているタイミングで声をかけられ、わたしは素っ頓狂な声を上げてしまった。
もっと慣れればいいのに、本当にレンくんがどこにいるのかわからないし、足音だって聞こえない。気配だって感じないから、いつどんなタイミングで話しかけられるのかがわからず、すぐに悲鳴を上げてしまう癖が抜けきらない。
おまけに。わたしが奇声を上げるのが、だんだん沙羅ちゃんや絵美ちゃんにも見られるようになってきたのだ。おまけに滝くんにもなにかと話しかけられるようになったものだから、滝くんのファンの子たちにも自然と目撃される訳で。
これでもっと冷たい目で見られるんだったら、もっと強くレンくんに「やめて」と言えるのに、何故か周りの視線は生ぬるいんだ。別にマゾヒストじゃないから冷たくされても嬉しくないけれど、こんな目で見られる謂れがないから、ますます変人扱いされているんじゃあと肩を跳ねさせてしまう。
次の移動授業は芸術。美術、書道、音楽の中からひとつ選んで受けるのだ。わたしは中学時代に美術の油絵の具を買ったから、それがもったいなくって美術を選んだ。沙羅ちゃんは小学校の頃から使っている書道セットを捨てるのがもったいないから書道、絵美ちゃんは教科書代だけで残りは小学校、中学校からのリコーダーが使えるからという理由で音楽だ。
レンくんがてくてく美術室まで歩くわたしに聞いてくるので、わたしはどう答えたものかと迷う。
今描いている絵は、静止画。皆でリンゴと瓶をモチーフに据えて、それを写生していたのだ。
「どこまでって言われても……絵って人によって違うでしょう?」
「そっかそっか。今日って品評会じゃなかったっけ?」
「あー……」
完成していてもしていなくても、個展を開くくらいに熱心な美術の先生は、皆でそれぞれの絵を見ようと言って、一旦キャンバスから離れて絵を見ないといけない。
絵が上手い子だったらともかく、ただ絵を描くのが好きなだけのわたしには、荷が重い。
でも、レンはどうしてそんなことを知っているんだろう?
「どうして知ってるの?」
「内緒」
「ずるい! レンくんはわたしのこと色々知っているみたいだけど、わたしは全然あなたのこと知らないんだから」
思わずそう言うと、レンくんは「あはは」と笑う。笑うところなんてちっともないのに。
「まあ美術室でおいおい」
そう言ってまだ笑い声を上げているのが癪だった。
なにより一番癪だったのは、彼がわたしに話しかけてくるのにいちいち驚いている癖に、それがすっかりと馴染んで当たり前になってしまっている今の自分だ。
****
美術室に入ると、油絵の具とテレピン油の匂いがつんと鼻に刺さる。
先生はそれぞれを机に座らせると、「それじゃあ、残り三十分を切ったところで、皆の絵をそれぞれ見て回るので、今日は二十分で仕上げなさい」と声を上げたら、一部からは「えー」という非難の声、一部からは「えー!!」という悲鳴が上がり、それぞれの席について絵を描きはじめる。
わたしはいつもの調子でペタペタとパレットの絵の具をテレピン油で溶いて、キャンバスに色を乗せていたところで、隣のキャンバスには誰も座っていないことに気付いた。
美術室全体が窓を開けていてもなお、油絵の具特有の匂いが抜けきらないけれど。キャンバスが乾いていたら、匂いなんて微々たるもののはずなのに、隣のキャンバスからもつんと油の匂いがする。
どうして? わたしは何度も目を凝らしたけれど、それはわからなかった。
「こら間宮。よそ見してないで絵に集中しなさい」
「あ、ごめんなさい」
一瞬だけわたしに視線が集中したのに縮こまっていたら、くすりと笑い声が聞こえたような気がして、わたしは思わず耳をそばだててしまった。さすがに授業中にきょろきょろとするような真似は、挙動不審が過ぎてできない。
今の笑い声は、レンくんのものだったような気がする。
筆を動かしてどうにか色を乗せる。それを見て、先生は苦笑してわたしの絵に口を挟む。
「間宮は色が淡すぎるなあ。油絵の具なのに、これじゃ水彩みたいだ。絵の具を溶き過ぎだ」
「ええっと……すみません」
「もうちょっと油絵の具を溶かずに、キャンバスで色をつくるんじゃなくって、色を乗せることを考えて塗ってみなさい」
「あ、はい」
わたしの絵は、どうにも薄すぎてぼんやりとしているように見える。
自分だと濃く塗っているつもりなのに、どうもはっきりとしない。わたしはそれに首を傾げている間に、時間が来た。
「時計回りに見て行って。感想があったら伝えてあげなさい」
先生の合図の元で、皆の絵をそれぞれと眺めていく。
わたしみたいに画材のよさを生かし切れずに水彩みたいに色が薄くなってしまっている絵もあれば、いかにも油絵という感じでべったりと絵の具を塗って、それを何度も何度も塗りながらタオルや雑巾で拭ったせいで、不思議な色合いになってしまっている絵もある。
そして。わたしは自分の右隣の絵に差し掛かったとき、思わず目をぱちぱちとさせてしまった。
リンゴと瓶を並べてそこに光と影を書き込むシンプルな構図をシンプルなままに描いている。本当に教科書通りの無難な塗り方で、上手くも下手でもないんだけど。問題はそこじゃない。
瓶の光の中に、うっすらと白い絵の具で字が描いてあったのだ。瓶の光を表現したと言ってしまえばすぐに見落としてしまうような文字。
【Ren】
筆記体で書き流しているその文字で、わたしは皆で絵を見ていた列に振り返ってしまう。
隣のキャンバスはたしかに空いていたはずなのに。でも、レンくんの文字が入ってる。
なんで、どうして……?
「間宮さん、次のテーブルに移動して、次の絵も見ていくよ」
「あ、はい! すみませんっ!」
先生に促されて、それからも絵をぐるぐると眺めていたけれど、目は泳いでしまって、どうしても絵をゆっくり鑑賞している気分じゃなくなってしまっていた。
レンくんが、この教室にいる。
今までどうして気付かなかったのかわからなかったというくらいに、衝撃的だった。
わたしには見えないのに。いるの?
でもどうして誰もなにも言わないの? わたしが変なの?
頭の中でぐるぐるといろんなものが渦巻いて、授業が終わるころには力が抜けてしまった。
いつもよりも重く感じる油彩セットをぶら下げて、すごすごと教室に戻る。体が妙に重く感じるのは、衝撃が強過ぎたのかもしれない。
「間宮、大丈夫か?」
そうレンくんに声をかけられて、わたしは力なく頷く。
「うん、大丈夫」
「元気ないみたいだけど、また体が痛いとか?」
「……ううん、体は全然痛くない」
記憶喪失……病院では体にはなんの不具合もなかったからと見過ごされていたことだ。
わたしはもしかして、交通事故の前後のことだけじゃなくって、なにか忘れてしまっているんじゃ。レンくんが見えないのは何故なのかは、それじゃ説明できない気がするけれど。
「あの、レンくんは……いるんだよね?」
「ん? いるよ。俺は、ここにいる」
「……見えないから、ときどきわからなくなる。声だけは聞こえてるのに」
見ているものが正しいのかが、あやふやになる。たしかに人としゃべっているし、言葉の受け答えもできているのに。
わたしが頼りないことを言うと、レンくんはやんわりと口を出した。
「あんまり抱え込むなって。ちゃんといるから」
「……どうしてわたしに声をかけたの」
「ん、じゃあ間宮は俺が声をかけなかったほうがよかった?」
そう言われてしまうと、黙ってしまう。
レンくんとしゃべっていても、楽しいから全然嫌じゃない。ひとりでしゃべってて変に見えるんじゃと思うこともあるけれど、何故か生ぬるい視線で見られることはあっても、誰も変なものを見る目で見てこない。
もしレンくんが黙ってしまったら……わたしはレンくんを見つけられない。そのままいないものとして扱ってしまうと考えたら……それはひどく寂しいことだと思った。
「本当に……嫌じゃないんだよ? 嫌じゃない」
「そっか。あー、よかった」
そう嬉しそうに噛みしめて言われてしまうと、本当に彼を責めることなんてできない。
レンくんは何者なのかも教えてくれないし、卑怯だとついつい当たってしまいたくなるけれど、何故か嫌になりきれないんだ。
病院の一件があったせいか、気付いたら学校でもふたりっきりじゃないときにもレンくんは話しかけてくるようになった。
授業中には話しかけてこないけれど、移動授業になった途端にレンくんが声をかけてくるんだ。
「間宮、絵はどこまで描けたんだ?」
「ひゃっ!?」
またも、廊下を歩いているタイミングで声をかけられ、わたしは素っ頓狂な声を上げてしまった。
もっと慣れればいいのに、本当にレンくんがどこにいるのかわからないし、足音だって聞こえない。気配だって感じないから、いつどんなタイミングで話しかけられるのかがわからず、すぐに悲鳴を上げてしまう癖が抜けきらない。
おまけに。わたしが奇声を上げるのが、だんだん沙羅ちゃんや絵美ちゃんにも見られるようになってきたのだ。おまけに滝くんにもなにかと話しかけられるようになったものだから、滝くんのファンの子たちにも自然と目撃される訳で。
これでもっと冷たい目で見られるんだったら、もっと強くレンくんに「やめて」と言えるのに、何故か周りの視線は生ぬるいんだ。別にマゾヒストじゃないから冷たくされても嬉しくないけれど、こんな目で見られる謂れがないから、ますます変人扱いされているんじゃあと肩を跳ねさせてしまう。
次の移動授業は芸術。美術、書道、音楽の中からひとつ選んで受けるのだ。わたしは中学時代に美術の油絵の具を買ったから、それがもったいなくって美術を選んだ。沙羅ちゃんは小学校の頃から使っている書道セットを捨てるのがもったいないから書道、絵美ちゃんは教科書代だけで残りは小学校、中学校からのリコーダーが使えるからという理由で音楽だ。
レンくんがてくてく美術室まで歩くわたしに聞いてくるので、わたしはどう答えたものかと迷う。
今描いている絵は、静止画。皆でリンゴと瓶をモチーフに据えて、それを写生していたのだ。
「どこまでって言われても……絵って人によって違うでしょう?」
「そっかそっか。今日って品評会じゃなかったっけ?」
「あー……」
完成していてもしていなくても、個展を開くくらいに熱心な美術の先生は、皆でそれぞれの絵を見ようと言って、一旦キャンバスから離れて絵を見ないといけない。
絵が上手い子だったらともかく、ただ絵を描くのが好きなだけのわたしには、荷が重い。
でも、レンはどうしてそんなことを知っているんだろう?
「どうして知ってるの?」
「内緒」
「ずるい! レンくんはわたしのこと色々知っているみたいだけど、わたしは全然あなたのこと知らないんだから」
思わずそう言うと、レンくんは「あはは」と笑う。笑うところなんてちっともないのに。
「まあ美術室でおいおい」
そう言ってまだ笑い声を上げているのが癪だった。
なにより一番癪だったのは、彼がわたしに話しかけてくるのにいちいち驚いている癖に、それがすっかりと馴染んで当たり前になってしまっている今の自分だ。
****
美術室に入ると、油絵の具とテレピン油の匂いがつんと鼻に刺さる。
先生はそれぞれを机に座らせると、「それじゃあ、残り三十分を切ったところで、皆の絵をそれぞれ見て回るので、今日は二十分で仕上げなさい」と声を上げたら、一部からは「えー」という非難の声、一部からは「えー!!」という悲鳴が上がり、それぞれの席について絵を描きはじめる。
わたしはいつもの調子でペタペタとパレットの絵の具をテレピン油で溶いて、キャンバスに色を乗せていたところで、隣のキャンバスには誰も座っていないことに気付いた。
美術室全体が窓を開けていてもなお、油絵の具特有の匂いが抜けきらないけれど。キャンバスが乾いていたら、匂いなんて微々たるもののはずなのに、隣のキャンバスからもつんと油の匂いがする。
どうして? わたしは何度も目を凝らしたけれど、それはわからなかった。
「こら間宮。よそ見してないで絵に集中しなさい」
「あ、ごめんなさい」
一瞬だけわたしに視線が集中したのに縮こまっていたら、くすりと笑い声が聞こえたような気がして、わたしは思わず耳をそばだててしまった。さすがに授業中にきょろきょろとするような真似は、挙動不審が過ぎてできない。
今の笑い声は、レンくんのものだったような気がする。
筆を動かしてどうにか色を乗せる。それを見て、先生は苦笑してわたしの絵に口を挟む。
「間宮は色が淡すぎるなあ。油絵の具なのに、これじゃ水彩みたいだ。絵の具を溶き過ぎだ」
「ええっと……すみません」
「もうちょっと油絵の具を溶かずに、キャンバスで色をつくるんじゃなくって、色を乗せることを考えて塗ってみなさい」
「あ、はい」
わたしの絵は、どうにも薄すぎてぼんやりとしているように見える。
自分だと濃く塗っているつもりなのに、どうもはっきりとしない。わたしはそれに首を傾げている間に、時間が来た。
「時計回りに見て行って。感想があったら伝えてあげなさい」
先生の合図の元で、皆の絵をそれぞれと眺めていく。
わたしみたいに画材のよさを生かし切れずに水彩みたいに色が薄くなってしまっている絵もあれば、いかにも油絵という感じでべったりと絵の具を塗って、それを何度も何度も塗りながらタオルや雑巾で拭ったせいで、不思議な色合いになってしまっている絵もある。
そして。わたしは自分の右隣の絵に差し掛かったとき、思わず目をぱちぱちとさせてしまった。
リンゴと瓶を並べてそこに光と影を書き込むシンプルな構図をシンプルなままに描いている。本当に教科書通りの無難な塗り方で、上手くも下手でもないんだけど。問題はそこじゃない。
瓶の光の中に、うっすらと白い絵の具で字が描いてあったのだ。瓶の光を表現したと言ってしまえばすぐに見落としてしまうような文字。
【Ren】
筆記体で書き流しているその文字で、わたしは皆で絵を見ていた列に振り返ってしまう。
隣のキャンバスはたしかに空いていたはずなのに。でも、レンくんの文字が入ってる。
なんで、どうして……?
「間宮さん、次のテーブルに移動して、次の絵も見ていくよ」
「あ、はい! すみませんっ!」
先生に促されて、それからも絵をぐるぐると眺めていたけれど、目は泳いでしまって、どうしても絵をゆっくり鑑賞している気分じゃなくなってしまっていた。
レンくんが、この教室にいる。
今までどうして気付かなかったのかわからなかったというくらいに、衝撃的だった。
わたしには見えないのに。いるの?
でもどうして誰もなにも言わないの? わたしが変なの?
頭の中でぐるぐるといろんなものが渦巻いて、授業が終わるころには力が抜けてしまった。
いつもよりも重く感じる油彩セットをぶら下げて、すごすごと教室に戻る。体が妙に重く感じるのは、衝撃が強過ぎたのかもしれない。
「間宮、大丈夫か?」
そうレンくんに声をかけられて、わたしは力なく頷く。
「うん、大丈夫」
「元気ないみたいだけど、また体が痛いとか?」
「……ううん、体は全然痛くない」
記憶喪失……病院では体にはなんの不具合もなかったからと見過ごされていたことだ。
わたしはもしかして、交通事故の前後のことだけじゃなくって、なにか忘れてしまっているんじゃ。レンくんが見えないのは何故なのかは、それじゃ説明できない気がするけれど。
「あの、レンくんは……いるんだよね?」
「ん? いるよ。俺は、ここにいる」
「……見えないから、ときどきわからなくなる。声だけは聞こえてるのに」
見ているものが正しいのかが、あやふやになる。たしかに人としゃべっているし、言葉の受け答えもできているのに。
わたしが頼りないことを言うと、レンくんはやんわりと口を出した。
「あんまり抱え込むなって。ちゃんといるから」
「……どうしてわたしに声をかけたの」
「ん、じゃあ間宮は俺が声をかけなかったほうがよかった?」
そう言われてしまうと、黙ってしまう。
レンくんとしゃべっていても、楽しいから全然嫌じゃない。ひとりでしゃべってて変に見えるんじゃと思うこともあるけれど、何故か生ぬるい視線で見られることはあっても、誰も変なものを見る目で見てこない。
もしレンくんが黙ってしまったら……わたしはレンくんを見つけられない。そのままいないものとして扱ってしまうと考えたら……それはひどく寂しいことだと思った。
「本当に……嫌じゃないんだよ? 嫌じゃない」
「そっか。あー、よかった」
そう嬉しそうに噛みしめて言われてしまうと、本当に彼を責めることなんてできない。
レンくんは何者なのかも教えてくれないし、卑怯だとついつい当たってしまいたくなるけれど、何故か嫌になりきれないんだ。