国内の気象情報で、北国の方では雪がちらついてきたというような言葉を聞き始め、十月も終わり告げようとする、そんな時期だった。
 私の元に、仕事が回って来なくなったのである。
 原因は分かっていた。マリに仕事が全部回っていたからである。
 元々派遣社員である私達は、会社内のとある課に所属となり、派遣社員を管理する上司の元に仕事が行き、それが私達の元に回ってくる。別の課の仕事を頼まれた場合も同意だ。担当の上司にお願いすることを託し、私達の元にやってくる。
 だが、私達の勤めているこの会社は、そうした組織管理がゆるゆるだったのである。
 不幸中の幸いというべきか、それとも逆に運が悪かったと言うべきか。我々同期は仕事の飲み込みや理解が早く、仕上げるのも早かった。そうなるとどうなるか。自分達が最初に入社した理由であるデータ入力以外の仕事も任されるようになる。
 その数が膨大となっていき、これはいけないと考えたのがマリだった。彼女は責任感が強く、真っ直ぐな性格だった。

 彼女はまず、私達の管理をしている上司という存在を頼らないことにした。完全に無視する形になったのである。それは私達も同じなので文句は言えない。
 その代わりに立って出たのが、マリだったのである。つまり、彼女は派遣社員でありながら中間管理職のような立場まで兼任するようになってしまった。
 そうすると、仕事が速く正確で、誰かに頼ることをあまりしない彼女がとる行動は一つ。己だけで仕事をすべてこなすことだったのである。
 ここまでで流れは読めただろう。私の元に仕事が来なくなったのは、マリが全てこなしてくれたからである。
 それが些か私の性格上、良い影響を与える事が無いも当然。
 私は何のために職場に行くのか。仕事が無い中デスクの前に座り、パソコンの電源を入れても、私はやることが無い。
 今まで私に仕事を頼んできた課に、仕事はないかと問いに行けば「マリさんに渡してあるのだけしかないなあ」と苦笑いで言われ、マリに「手伝えることはある?」「あまってる仕事はある?」と笑顔で問えば、マリはにこりと笑みを浮かべてこういうのだ。
「大丈夫! わたしがやるから!」
 ああ、ダメだこれ。私は即座に悟った。

 そんなタイミングで、上司は「それぞれが現在行っている仕事を確認したい」と、自分が現在進行形で行っている仕事を書きこむ共有ソフトデータを送ってきた。ここに、自分がやっていることを書きこんでいってほしい、ということだった。

 地獄じゃないか?

 私の顔は完全に死んでいた。自分の仕事の所に、私は何を書けばいい? 仕事有りませんでした、とでも書いておけばいいのだろうか。そんなこと許されるはずもない。
 私は、過去に行っていた自分の仕事のデータをちまちまといじる日々を過ごした。給料泥棒とでも呼ばれてもおかしくない。
 職場に行って、それだけで給料もらえる。そう考えればいい、と私も考えられる性格だったら良かった。他人の目線など気にせず、堂々と出来たらよかった。
 気が付けば、私はトイレに籠りがちな女になってしまった。

「せんせー」
 仕事が終わって、さあ帰ろうとしたときに、マリにこっそりと声をかけられた。どうかしたのかと椅子に座り直して、二人で背中を少し丸め、こっそりと内緒話をするような体勢になる。
「どうかした?」
「ん、あのね、少し言いにくいんだけれど……」
 少しだけ視線を泳がせてから、意を決したようにマリは私に再び目を向ける。
「皆が、佐藤さんは何をしているの? って、仕事はしているの? って」
 胃液が、せり上がってくるような感覚がハッキリと分かった。井の中は空っぽだから、胃液だけがせり上がって来て、酸っぱい、それでいて焼けるような痛みが、チリチリと喉を焼く。
「まあ、私もよくスマホいじってるしトイレ行くからね、言うか悩んだんだけど。少しスマホ触ってたり、席をあけている姿が気になっちゃったらしくて」
 全くその通りだ。私は、時間を潰すように、スマホをいじり、トイレに逃げる。

 この給料泥棒。最低な人間。

 職場の皆に、囲まれて、言い詰められているような気分がした。
 マリの言葉を聞いて、一瞬だけ間をあけて呼吸をして、薄く笑みを浮かべた。
「ごめんね。確かにそうだよね、気をつけなきゃ」
「こっちこそごめんね。あの、仕事は、ある?」
 無いよ。君が、全部持っているからね。急ぎの仕事はない? 手伝えることはない? 私、手が空いているよ? そう問うても、大丈夫だよと言って渡してこなかったじゃない。仕事を渡してくるグループの人たちも、マリさんに渡したから無いと苦笑いを浮かべていたのよ。
 なんてことは言えずに、にこりと口角を上げた。
「大丈夫。図面の仕事が少しあるからね」
 嘘だ。仕事をしていないのがばれない様に、過去の仕事のデータを何枚もコピーして、仕事をしている風に装っているだけだ。
 ふ、と祖母の言葉を思い出した。
「仕事が無いほど情けないことはないわなあ」
 今がその時、全くその通りだと、脳裏に浮かぶ祖母に力強く頷いた。
 気を付けるね、とだけ言葉を残し、私は席を立つ。彼女は、時間を取ってごめんねと謝って、お疲れと手を振っていた。
 彼女のデスクの周りには、本来、私に回ってくるはずだったであろう仕事が積まれていた。彼女は残業するようだ。
 仕事、あるんじゃないの。もしかして、私ではできないような仕事が増えたのだろうか。
 罪悪感、己の無能さ、弱気な性格。全てが嫌になる。逃げ出すようにして、早足で仕事場から出た。


 そして、運のめぐりが悪い時は、何故だろう、不幸が増えてしまうのだ。
 私が仕事場について悶々と考えている間に、祖母の容体が悪化した。今までは検査入院、ステントの手術、そういった小さな非日常だったというのに、老人の身体というのは、本当に突然急変する。
 祖母は泌尿科から内科に担当が変わった。
 ハッキリと、病名が出たからだ。『腹膜播種』というらしい。胃癌から腹膜への転移をすることを言う。
 病名を母から聞いても、ハッキリと病気の症状などは分からない。スマホの検索機能で『ふくまくはしゅ』と平仮名で入力しても、優秀なコンピュータはきちんと検索をしてくれた。
 要は、簡単に言えばガンの一種らしい。腹膜播種が進行すると、お腹の中に腹水がたまったり、大腸や小腸が狭くなったり、尿の流れが悪くなったりすることがある。このような合併症により腹部膨満感、腹痛、吐き気などの症状がみられることがある。

 どれも、覚えがあった。つまり、最初から答えは出ていたのだ。
 どうして、どうして見つけてくれなかったの。私の心の中の嘆きは、誰にも届くことはない。

 排便が出来ない為、人工肛門をつける手術も、また行われる。
 段階はステージ4。日々しんどそうな表情をし、身体が重いのかあまり動かなくなって、寝る事が増えてしまった。
 日課だった祖母と一緒に食べる朝食も、祖母が寝ているために、一人で食べる日々が増えていた。
 いよいよもって、「覚悟をしておいて」という言葉の重みが背中に乗しかかる。恐れているものが、刻々と近付いているのだと、ハッキリと理解した。

「おえ、げえ……」
 ビシャビシャと音を立てて、吐しゃ物が溢れ、水たまりの上にこぼれる。張られた水に吐しゃ物が浮かんでいて、それが気持ち悪くてさらに吐き気を催す。奥から込み上げてくるものがあり、体の中から逆流してきて、また口から零れた。一回の量を吐き終えると、呼吸が乱れる。
 本来ならば上から下へ流し込むための器官が、逆に下から上に逆流したことによって、体には負担がかかり、涙と鼻水が生理的に流れた。
 一通り行為を終えた後、ヒュウヒュウと呼吸をしながら扉にもたれかかる。
 嘔吐という行為は結構体力を消耗する。まあ、そりゃあそうか。内臓を使役して、入口を出口に変える行為だ。
 口元を紙で拭って、涙と鼻水も同じ様に新しい紙で拭って、それらをまとめて流す。
 それから何度も水を流してから、洗面所で軽く歯磨きをし、涙で流れてしまった化粧を軽く手直しした。
 化粧ポーチを閉じてから、フラフラと壁に背中を預けて、そのままずるずるとしゃがみ込んで、三角座りの体勢になる。

 何をやっているんだろう。

 ゆっくりと瞼を閉じる。脳裏に浮かぶのは、昔よりもうんとやせ細った祖母の、少しぎこちない笑顔。そして、そんな祖母の面倒を一番見て、疲れが少し見えていた母。祖母と共に過ごさなくなったからなのか、認知症の症状が現れ始めた祖父。そんな祖父を見て気が気でなくなり怒りをあらわにしている父。
 そんな中、新たな悩みを、あの家にぶち込んでも良いのだろうか。私なんかが、また、家族に心配をかけて、ストレスを掛けて、気苦労を掛けて。祖母の事だけで、今は家の中が慌ただしいというのに。

 私はまた、心療内科に通った。迷惑をかけたくなかった、どうにかしたかった。それでも、仕事は続けたかった。
 お金の問題も勿論ある。お金はないよりある方が良い。お金がないと不安になる。
 けれどそれ以上に、あの職場を去ると言う事は、私にとって居場所がなくなる事なんじゃないかと、不安にさせた。
 食べ物を吐くこと、寝つきが悪いこと、職場に向かうのが不安で恐怖を持っていること。月経が乱れている事。それらを主に伝えていけば、主治医はふむふむと頷きながら話を最後まで聞いて、カルテに書きこんでいった。
「家族の間に何か問題はある?」
「問題……というか、祖母が病気で、入退院を繰り返していて、軽い介護が必要な感じです」
「ああ、成程ね。それもあるかな」
 そんなことはない! そう、激怒しそうになった。祖母は何も悪くない。全部、私の職場での問題だ。私が上手く職場で立ちまわれないからだ。
「そう、ですかね……」
「うん、分かった。それじゃあ、お薬を出しておきますね。十日後に、また来てください」
「はい」
 小さく返事をして、椅子から立ち上がって、礼を述べてから診察室を後にした。
 会計を待つまで、待合室でぼうと待つ。私の体調の悪さは、祖母の所為? そんなわけがあるか。
 悪いのは全部私だ。心の弱い、私が悪いのだ。
 ごめんなさい。心の中に、浮かんできた人物に、一人ずつ頭を下げる。一番深く頭を下げた相手は、祖母と母だった。
 こんな孫娘でごめんなさい。情けない私でごめんなさい。心労をかける人間でごめんなさい。まともな人間じゃなくてごめんなさい。
 心の中でずっと謝っていれば、会計の順番がまわってきて名前を呼ばれた。
 診察代と薬代の両方が合わさった値段は、私の一日分の給料と大して変わらなかった。

 医者の薬が効き始めるのには、時間がかかる。それが何よりも苦痛な時間だった。
 朝起きて、一人で食事をし、二階に上がり、トイレで朝食をすべて吐き出す。医者から貰った薬を飲む。身支度を整える。顔色や化粧ノリが悪いことを誤魔化せるマスクは、とてもありがたい存在だった。
 出社したら、無意味な書き込みを永遠と続ける。途中で席をはずして、嘔吐をする。そして呼吸を整えるために、トイレの壁に寄り掛かって、座り込む。そんな日々を常に続けていた。
 自分の存在意義が分からない。良い子で居られない。他人の視線が気になって仕方がない。どうしてこうなったのだろう。がりがりと腕をかく。また、この癖が出てきてしまった。
 一年前は、ここでの仕事はこんなに苦痛じゃなくて、自分に向いていると思っていたのに、このザマだ。私は、すぐに調子に乗る。調子に乗るから、こうなったのだろうか。
 ふと、窓の外を見る。白い雪がちらちらと降っているのが見えた。もう十一月の中盤も過ぎた。もう少ししたら、何度目かの三ケ月ごとの契約更新の時期がやってくる。
「……更新、止めておこうかな」
 ここに自分の居場所はないだろう。私が居なくても、何とかなっているのだから。
 ゆっくりと立ち上がって、契約更新についての電話が来るのを、待とうと思った。そう考えた数秒後に、スマホが鳴った。派遣会社の担当の人だ。
「はい」
『今大丈夫?』
「はい、丁度休憩を取っていたので、大丈夫ですよ」
『そっか。それで、本題で更新延長の話なんだけど』
「……すみません、私」



「手間をかけてごめんね」
 祖母が入院をしていない、且つ祖母が起きている夜、祖母のむくんだ足を――気休め程度だろうが――マッサージしていると、必ず謝ってきた。
 病で苦しんでいるのは祖母なのに、どうしていつも謝るのだろう。謝る内容はいつも、手間をかけて申し訳ない、面倒を見てくれてごめんね、自分なんかに気を使ってくれてごめんね。そんな事ばかり言う。
 本当は、今までみたいに普通な生活をしたいだろう。弱っていく自分の身体が言う事を聞いてくれなくてしんどいだろう。脚だってむくんで、悲しいだろう。
 一番苦しいのは本人のはずなのに、どうして私達に気を配るんだろう。
「ばあちゃんは、優しいね」
 ぽつり、と呟いた言葉に、祖母は意を突かれたようで目を丸くして、目尻を下げて、また少し申し訳なさそうな顔をして、私の頭を撫でた。
「もとちゃんもだよ。いいこ、いいこ、優しい子」
「私は、優しくは」
「私の面倒を見てくれる。仕事もしているのに、面倒見てくれてありがとうね」
「……違う」
 祖母の、むくんでパンパンとなってしまったふくらはぎを揉んでいた手の動きが止まる。
「私は、また、仕事から逃げ出そうとしている、弱虫で、良い子なんかじゃない」
 ぼろり、と涙がこぼれた。
「私、仕事を辞めるって、言ったの」
「あら」
「ばあちゃんの介護をするって! 本当は苦しくてしんどいあそこが嫌だから辞めるのに、ばあちゃんを理由にして、逃げた、最低な奴なんだよ」
 文豪の恥をさらした小説に『人間の生活というのが見当つかないのです』と書かれている。本当、よく言ったものだ。
 あくせく働いて金を稼いでいる人は偉い。国民の義務を果たしているから。
 仕事や人間が怖くて、祖母の介護の為ともっともらしい嘘をついてまで、国民の義務を放棄しようとしている私とは違う。
 同じ職場に留まれる人も偉い。私は、今の職場の二年半が最長だ。まだ二十代の後半に入ろうとするくらいの年齢なのに、何度職場を変えただろう。
 私の足元は、いつだって一人分の足場の脆い瓦礫だ。
 もし私が誰かを養えるほど給料をもらっても、かっこいい彼氏や彼女が出来ても、国民全員に愛されるアイドルになっても、自分の願いが全て叶う魔法をかけられたとしても『この人生は正しいのか。私は生きていていいのだろうか』と疑問に襲われながら生きるのだろう。
 人間、どうやって暮らしているのだろう。どうやったって、人生満足しないのに。

「それじゃあ、一緒に居られるね」
「え?」
 伏せていた顔をあげれば、祖母はにこにこと笑みを浮かべていた。
「もとちゃんと一緒に居られるなんて、ばあちゃん幸せ者だな」
「……こんな私でいいの」
「もとちゃんが良いんだよ」
 ぎゅ、と握られた手は細くて少しかさついていて、血管が浮き上がっている少しだけ浅黒い色だった。それでも、まだ、温かい。その温かさに、再び涙が出そうになった。
「心が痛くて苦しいのに、頑張ったねえ。偉いねえ」
「……ごめんね、こんな孫で、ごめんね」
「そんなことないよ。助かっているよ。だから、謝らないでいいんだよ。私をいくらでも使えば良い」
 どうしていつも謝るのだろう。
 さっきの、祖母に対する疑問が、自分に投げ返された気がした。きっと祖母も、同じことを思ったのかもしれない。
 祖母の両手を包み込むように私の手で握って、まるで祈るようなポーズをとる。
「許される限り、一緒に居させて」
 ぽつり、と呟いた言葉は祖母には届いていなかっただろう。
 それでも祖母は、大丈夫、大丈夫だよと優しい言葉を掛け続けた。

 私の神様は、優しく私を慰めてくださった。