あぁ、母はここで独り寂しく死んでいくのだろう。唐突にそんなことを思った。私の気配に気付いたのか、母がうっすらと目を開けた。白く濁ったその目が私を捉える。私だと分かっているのか。焦点があっていないようだ。瞳の色は変わることなく、虚空をぼんやりと見つめるだけ。癌が母の体を蝕んでおり、もはや意識も朦朧としているのかもしれない。良好な親子関係が築けていれば「お母さん! 私よ!」と、泣きつくこともできただろう。でも、私にはそれができなかった。ただ、静かに泣いた。握りしめた拳の上に涙がパタリと落ちる。

「生きて……生きてよ。お母さん。私に、呪いをかけてよ。お母さんのどんな病気だって治せちゃう呪い」無茶だと分かっていても言葉を止めることはできなかった。次々と涙が頬を伝う。

 苦しそうに呼吸をするたびに、母の口から悪臭が放たれる。死を連想させるような匂いに私は顔を顰めた。つらい。これ以上ここにはいられない。私は薄目を開ける母を一瞥し、すっと立ち上がった。

「さようなら。お母さん」

 私は一つの賭けをしにここに来ていた。あの日リビングに現れた私の亡霊。高校生の私が問い掛けた。「本当はお母さんに生きていてほしいんでしょう」と。違う。私は否定した。高校生の私は憐れむような、蔑むような瞳で今を生きる私を見た。それならば、最期に母に会おう。そう決めたのだ。母を見て私がどんな感情を抱くのか。
 もしも強く心が動くことがあれば、今日持ってきた「物」を母に置いていこうと。それは銀行の封筒で、中には一万円札が百枚。父か紗穂がここを訪れた際に、気付くように目立つ場所に置いた。どうか、これで母に苦しみのない最期を。用件だけの短い手紙を残して。
 高校生の私が言った通りだった。私は母に生きてほしかった。顔を見たら生きてほしいと願ってしまった。これも母の呪いなのだろうか。母の生に執着してしまう呪い。高校生の私が、今を生きる私に囁く。