有楽町の駅に向かって、晴海通りには出ずに、みゆき通りを歩いて行った。阪急デパートの角を、高速道の方に向かって折れ、その下を潜り、ニュートーキョーの前の信号を渡り、旧日劇の裏手から、有楽町駅に着いた。わたしの頭の中を、ミシェル・ルグランの『シェルブールの雨傘』のような、この歌が駆け巡った。
 
  何事もなく 満ち足りていた
  女の夕暮れ 貴方に出逢った
  永い時のヴェールが 夕陽にとけて
  鮮やかに蘇る TWILIGHT LOVE
  ひとつ ふたつと 灯る想い出
  貴方を見上げる 幼い子供は
  貴方に知って欲しかった 愛の忘れ形見

  幸せ過ぎて 時の経つのも
  別れも気付かず 愛したあの春
  若い愛は小さな 過ちさえも
  許さずに暮れて逝く TWILIGHT LOVE
  なぜに どうして 言葉ひとつも
  貴方は残さず 消えたの あの秋
  一年待っていたけれど 二年待てなかった

  今はもういい 胸を切り裂き
  奈落で身を焼く 激しい逢瀬は
  セピア色の想い出 遠ざかる影
  切なくも振り返る TWILIGHT LOVE
  遠い黄昏 淡い青春
  けれども あたかも きのうの出来事
  あすから命果てるまで 忘れられぬ別れ       
 


 








三月十一日

 人の心の奥深くに棲んで、その心根に巣食うもの、全てを無に帰し、心の間隙から白い断層に叩きのめすもの――嗚呼、この虚脱!このフリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェのニヒリスティックな心情を、溢れんばかりの情愛で充たしてくれる人はいないのだろうか?
 ミケランジェロ・アントニオーニの『赤い砂漠』、フェデリコ・フェリーニの『8 1/2』前者は寡言によって、後者はアンドレ・ブルトン風のシュールレアリスムによって、この心のニヒルを表現した。二人の言わんとすることは、痛いほどよくわかる。だから、映画を見ていると涙の出るほど嬉しくなることがある。でも、それでもなお、わたしのこの名指し難い痛みに覆われた心は、何ものによっても完全には表現されえない。映像は、所詮、二次元の仮象でしかない。アリストテレスの『詩学』のカタルシスでは、わたしの心傷は癒されない。わたしの心は、わたし以外の誰もが持っていない唯一のもの。この現実は、余りにも決定的だ。