喫茶店マロンを十時に追い出された。銀座といえども、この頃になると流石に殆どの大通りの店は、ネオンのみ残して、夜の帳のナイトガウンを纏う。それでも街路には、数時間前まで往来していた人々の吐息の残滓のせいか、人々の魂の空蝉のようなものを感じる。この雰囲気も、翌朝、遺失物横領の住所不定の人々が来るまでには、すっかり冷え切ってしまうだろう。そして、全ては一夜の濾過によって、過去の烙印を押される。そんな何の滋養もない所、昼は過密で夜は過疎の、都会という平和そうで少しも平和ではない虚構の上に構築されたマッチ棒の城。現代の寂莫たるカラコルム砂漠。心の潤いを求めて、北山修の『コブのない駱駝』のような人々は、阿部公房の作品群のように、様々な事物の意味性が次第に薄れて行くという、背筋が戦慄に打ち震えるような人間の過失に気付かない。例えば、際限のない欲望を満たそうとし、自動車がある限り隠滅するはずの無い自動車事故を皆無にしようとし、癌や動脈硬化が無くなったら、益々無為徒食の老人人口が増加すのに、寛解を求めて、それらの病気を治療し、完治し、征服する方法を探そうとしている。そんな中に、わたしと彼の一輪の財津和夫の『サボテンの花』が咲く。何もかも人工の物の中で育まれたわたしと彼の惨憺たる泥沼の様な心にもちっぽけなくすんだ色の花が一夜限りの月下美人の様に開く。恢廓たる現代とういう荒寥たる砂丘の庭に咲く一輪の花。一人の男と女とが花になると、それと同時に砂漠に生きていたことを忘れ、そこに差し込まれた香港の造花であること知らないだけに、客観的に見れば、憐憫の情に値する。砒素入りの粉ミルクを飲み、ゼンマイ仕掛けの玩具と戯れ、ユニクロの既成服を着て育ち、恋人ができると、金儲けのために建てられた映画館で、宣伝と内容の微妙に異なる映画を見て、金を搾り取るために作られた煌びやかなだけの店の前を闊歩し、自動車に道を譲らされ、恋人との語らいの場をコーヒー一杯で提供する喫茶店に入り、原価三十円のコーヒーを五百円で飲み、誰かさんの税金で舗装された道路を散策する。みんな他人が自分のために造ったもの。その中で男と女は愛を育てようとする。わたしの彼の愛はちっとも生育しない。担任の思う壺に嵌って、わたしたちはありもしない物を創ろうとし、他人の造った物に依存してまで育つ可能性のないものを育てようとして、時間を恰も無尽蔵の再生可