伝説の沼は「稚児池」という。木曽義仲の四天王のひとり、今井氏がこの土地に根を下ろしていた頃、修行中のお稚児さんがその辛さに耐えかねて、この池に身を投げたという。でも、その池は直径五メートルもなく、とても入水できそうな深度はないように見えた。いまは、葦が叢生し、枯れ木が堆積し、氷結していない水面も見えない。わたしは、いささか落胆した。
 それから、その上に広がっている、伐採したばかりの山の頂上に登り、そのお稚児さんが修行していたという雪下ろしされた赤い屋根の寺を俯瞰した。上から今井という土地を眺めてみると、人家のある処には、大抵、こんもりとした小さな林のあるのが分かった。関東地方において、家の周囲の木立が空っ風を防ぐように、北陸の山の裾では、大陸からの吹雪を防ぐために林があるらしい。その樹木が植林されたものか、伐採されずに残されたのかは分らない。近所には、見事な銀杏の並木道がある。秋には銀杏が道一面に転がって異様な悪臭を放つ。そこで、平山忠夫の『帰ってこいよ』のような歌が生まれる。

  金と銀とが散る夕べ
  いちょうの木から舞ってます
  あなたの好きな銀杏を
  やしろの森で拾います
   祭の夜に帰って下さい
   必ず 必ず帰って下さい

  銀杏の実に好きの文字
  遠いあなたに贈ります
  あなた命と泣く夕陽
  私の目からこぼれます
   あなたの好きなこの私
   祭の夜にあげたいの

   その夜だけど電話もしないで
   理由も言わずにあなたは東京
   待った恨みに熨斗つけて
   遠いあなたに送ります

  年の暮れには嫁貰う
  そういう噂 立ちました
  あなたの好きないい人は
  東京に住む人だって
   こんな噂 ほんとでないよう
   お願い お願い ほんとでないよう
   鎮守の森で願懸けて
   遠いあなたを待ってます
 
 巨きな砂時計の小さな括れから零れ落ちる砂のように、しんしんと雪はずっと降り続いていた。わたしは不図、深沢七郎の『楢山節考』ではなく、太宰治の『姥捨』を思い出していた。白一色の冷たいシーツの雪の中で死ねたら、どれほど倖せだろうか。マッチ売りの少女も確か、雪の中で死んでいった。五味川純平の『人間の条件』の梶も満州の雪原でなだらかな小さな突起となって息絶えた。子どもの描写に閉口したが、全巻を読むのに徹夜した。