三とせも育みました 
今ここで掘り起こすことが
      できるのならば
何で想いを託しましょうか
        この白いさんざしの花に

  さんざしの庭では
   わたしの友と語らいが
    あなたと二人交わされて
     弾んで見えます
  さんざしの木の根に
   嫁いで行った日にこっそりと
    あなたの思い出を埋めて
     今日まで育みました
      まだこんな未練な想いが 
      残るのならば
       何で二人を呼んだのでしょう
        この白いさんざしの庭に

      まだこんな未練な想いが 
      残るのならば
       何であたなを埋めたのでしょう
        この白いさんざしの庭に

 ああ、全てが雪の中に埋葬されればいい。このわたしの、中途半端な燃えきらない燠のような命の焔も、中庭の池を遊泳する厳めしい蘭虫も、白い湯気を孕んだ湯殿も、鉄瓶が口笛を吹いている茶の間も、翡翠の置物のある居間も、掛け軸の垂れている床の間も、四尺余りもある真鍮の観音様が居丈高に見下ろす応接間も、美味しい歯茎に染み入るほど冷たい井戸水のある台所も、みんな、みんな、全て雪の懐の中に埋もれればいい。三好達治の『雪』ではないが、「わたしを眠らせ、わたしの屋根に雪ふりつむ。」新田次郎の『八甲田山死の彷徨』の死は雪の中の凍死だ。ありとあらゆるもの音が、静寂を余儀なくされ、静謐のみが人の耳朶を覆う。そんな沈黙の世界で死ねたらいい。
 太宰治の『千代女』で言う「人生のねむり箱」の炬燵の中で、微睡んでうとうとと、愛する人の胸の中で死ねたら、この上もない幸せだ。そこで、中島みゆきの『時代』のような歌が生まれる。
 
  いつも見る夢は
   淡い恋の物語
    愛し愛されて
     何もかも忘れたい
  いつも漕ぐ船は
   青い海の物語
    漕いで漕ぎ疲れ
     何もかも捨て去りたい
 
     だけど夢はいつも夢
     憧れだけが宙に舞う
     それでいいの さりげなく
     この青春に別れを告げよう
 
  いつか逢えるだろ
   わたしが愛せる人に
    きっと巡り逢う
     時があるはずだから
 
     だけど夢はいつも夢