そっと揺り起こしてる
   目を閉じてはいけないよ
    薄れて消えてく昔の愛は
    ほんのひとときの
     うたたねだけでも
     遥か遠くの長い長い時の彼方
      埋もれて行ってしまうものだから
       だから うたたねはしないで
       だから 想い出を見つめて
       何気ない触れ合いや
       ぎこちない恥じらいにも
       かげがえのない愛はあるのだから

 ところで、泉鏡花のファンだった三島由紀夫が、『斜陽』で売れっ子になった太宰治などの「私小説家は嫌いだ」と言ったのと、わたしがつまらないと思う小説には一脈通じるものがあるのかもしれない。確かに、耽美派の谷崎潤一郎の『刺青』の文体のわざとらしさと比較すると、私小説はどれも無理のない文体だ。しかし、私小説であれば、実体験を文章化するだけのことだから、ゼロから唯美世界を構築しようとする谷崎潤一郎の『春琴抄』ような無理は生じない。いうなれば、志賀直哉の文体は小説ではなく、上品な作文なのだ。三島由紀夫はそれに気づいていた。だから、フィクションを書きながらも、無理のない文体に拘ったのだ。このへんが、ノーベル賞作家の大江健三郎と異なる。彼の文体は、『死者の奢り』に始まって、『芽むしり仔撃ち』、『個人的な体験』、『万延元年のフットボール』のいずれを見ても、明治以来、多くの小説家が言文一致を目指してきた流れに夏目漱石の『草枕』の冒頭で竿を差すものだ。でも、面白くない。退屈だ。小説ではないが、実存主義の祖と言われるセーレン・キルケゴールの『誘惑者の日記』を読んだ時の興奮はアルベール・カミュの『異邦人』を除くと、どの小説からも得られなかった。作為が感じられる小説はうんざり。でも、小説で生計を立てようとすれば、編集者や出版社におもねって、採算ベースに乗るようなものを書こうとする作為が生まれる。カミュだって、売れ始めて書いた『ペスト』はつまらない。サルトルも、初期の『壁』や『嘔吐』はまあまあだが、大家になってからの『自由への道』はあまり面白くない。司馬遼太郎の『坂の上の雲』や『龍馬がゆく』や『燃えよ剣』が面白いのは史実の面白い部分を解説を加えながら、小説ではなく、小説風の講談物語にしているからだ。