「絵画は美の形式だ。そうとらえないと印象派もキュビズムもシュールレアリスムも理解できない」
ともいう。歩きながら、
「ぼくは、絵画を見るとき光の方向をさがす」
などと、分った様な、分らない様なことも言う。
 わたしは、絵を見ているような恰好をして、時々窓ガラス越しに、下の通りの自動車や人の流れに目を落としていた。下の通りには街路灯もなく、店舗から漏れる照明が寒そうな黄色く薄暗い影を伸ばしていた。
 彼は、その間、エニド・スターキーのアルチュール・ランボー伝記書の表紙のような髪型をした友達と何かを語りあっていた。彼は、明らかにわたしを意識して話していた。彼は自意識のみからなる肉塊だ。カート・シオドマクの『ノドヴァンの脳髄』のように脳髄だけで生きる未来人のような、自意識の化け物だ。
 彼は、わたしの行く手で立ち止まり、ジョルジュ・ルオー風の一枚の肖像画を注視していた。わたしが、その絵を覗こうとすると、彼は、少し横にのけ反って、
「ねえ、これどう思う?何か必死になって訴えようとするものがあるんじゃない?」
と声をかけてきた。わたしは態と気怠そうに、
「わからないわ」
と返答した。その返答が最も無難なものだった。それ以外のことを彼に言っても無駄。彼は、わたしに質問をする前に、周到に回答を用意しているのだから。それに、彼は、自分で回答を用意していないような質問はそもそもしない。
「不満とか、何かを語り掛けたいとかいうことはわかるだろ?だけど、あんまり感情に走りすぎて画面がおぼれかけているよ。きたないしさ。それに筆の使い方と油の使いたかを知らないな。このタッチなんか、いかにも絵具で描きましたってな調子だろ。それから、ほら、この部分なんか遠くじゃよくわからないけれど。色が完全に死んじゃっているだろう?」
 彼は、腕を組みながら、一人前の美術評論家のように、その絵を審美した。目玉の矢鱈にぎょろぎょろした、憔悴しきった骸骨のような訳の分からない肖像画のどこがいいのだろう。
「そういえば、そうね」
とわたしは試しに相槌を打ってあげた。
「このごつごつした肩のところなんか、色が不自然で、あっていない感じね」
というと、彼は黙って肯いていた。それから、友達に、
「じゃあな」
と挨拶すると、階段を下りて行った。そこで、阿久悠の『五番街のマリーへ』のような歌が生まれる。