物事を認識しようと思う人間にとっては、世俗の人々のすることなすことは、滑稽に映るだろう。物事を認識しようと思うことは、ルネ・デカルトが、『方法序説』の最後のほうで述べているように、
「世間で演ぜられるどの芝居でも、役者であるよりも見物人であろうと努める」
こと。感受性の異様に強い人や、非常に傷つきやすい感性を持った人にとって、こういう生き方は、現世の感情生活の鎧となるだろう。だからアルトゥル・ショーペンハウエルは、
「この世界を感情でとらえる者にとっては、この世は悲劇であり、理性でとらえる者にとっては、喜劇である」
と高踏的なことを言うのだ。でもそのことは、一般性を持たない。妥当性を持つのは、主格にアルトゥル・ショーペンハウエル自身を置いたときのみだから。つまり、彼自身がこの世界を感情でとらえれば、エドモン・ロスタンの『シラノ・ド・ベルジュラック』のように醜男であるがゆえに、この世は悲劇なのであり、彼自身がこの世界を理性でとらえれば彼が秀才であるがゆえに、この世は喜劇なのである。
 彼が秀才であるということは、他の人は鈍才であることの裏返しであり、したがって、この世は鈍才の演ずる劇になる。鈍才の演ずる劇とは、オノレ・ド・バルザックの『人間喜劇』のこと。彼に従えば、恋愛とは、自然の狡猾な詐欺。男と女にとって、最大の幸福は恋愛状態にあることであるが、それは必然的に愛の結晶として子供を誕生させる。そして、自然の意思は、種族保存である。だから、恋愛とは、自然がその意思を実現するために人間の男と女に与えた狡猾な詐欺ということになる。陰で糸を引いているのはDNAだ。
 ある男とある女はいずれ寿命がつきて朽ち果てるが、愛の結晶は次の命を誕生させる。それが、延々と繰り返される。男と女は浮世の幸不幸に翻弄されるが、二重螺旋のDNAは陰でほくそ笑んでいる。連綿として生き続けるのはすべての生命のDNAだけだ。