を問うことの出来ないチキンなのよ。ニコラス・レイ監督の『理由なき反抗』のジム(ジェームズ・ヴァイロン・ディーン)のように、車のチキンレースすらできない。
 そう言うわたしは、アルベール・カミュの『異邦人』のムルソーなのだろうか。それともアンダルシアのしがないボヘミアンなのだろうか。そこでフレデリック・マーキュリーの『ボヘミアン・ラプソディ』のような歌が生まれる。

  「さようなら」がわたしの挨拶 
  人の絆が苦しくて今日も気ままに旅をする
  なんの当てあるわけじゃない
  プラットフォームにひとり佇み 
  軈てやってくる夜行列車に
  掻き立てられるロンリネス
  ああ我ひとり 我ひとり
  生まれつきのボヘミアン
  生まれつきのボヘミアン

  「また逢おう」がわたしの挨拶
  夢と希望が切なくて
  今日も線路で星を見る
  涙をくれる人もない
  夢のポケットに孤独詰め込み
  片道切符を枕にはさみ 
  掻き毟られるノスタルジー
  ああ我ひとり 我ひとり
  夢は孤独 ボヘミアン
  夢は孤独 ボヘミアン   

  「それじゃまた」がわたしの挨拶
  愛の出逢いに臆病で
  今日も涙で顔洗う
  どうせ天涯孤独の身
  今来た峠を引き返そうと  
  異国の空に朽ち果てようと
  それがわたしのハッピネス
  ああ我ひとり 我ひとり
  愛は別れ ボヘミアン
  愛は別れ ボヘミアン


十月十五日

 詩とは、お菓子のようなもの。甘いのもあれば、辛いのもある。口に合わない、不味いものもあれば、美味しいものもある。好きになったら味を覚える。その味が、いつまでも心に残る。
 自分で不味いと思ったら、それ以上、食べることはない。例えば、ロートレアモン伯爵の『マルドロールの歌』のように、自分では美味しいつもりで作ったものも、他人の嗜好に、そのあまりの晦渋さのゆえに、合わなければ仕方がない。それはあくまでも、個人の舌の感覚の問題であり、作られたから必ずしも食べなくてはならないというものではない。詩人は決して、他人に対して、
「自分の詩を味わえ」
と強要することはできない。でも、たとえ自分の口に合わないものでも相対性の効果を信じて吐き捨ててしまう前に、
「こういう味もあるんだなあ」