「カミュはノーベル文学賞の受賞でピークを迎えたが、その後、サルトルとの論争に敗れて、孤立していった」
 そういう人間が好きだという。
「順風満帆の人生を終えた志賀直哉や武者小路実篤はあまり好きじゃない」
と言う。
「生前の三島由紀夫は好きじゃないが、あの割腹自殺で、嫌いでもなくなった」
と訳の分からないことを言う。わたしの気を引こうとしているのか。
 彼の低い声、「マロン」の世紀末的な雰囲気、気怠い軽音楽、メンソールのたばこの煙、仄暗い照明、コーヒーのほろ苦いアロマ、時折、窓外を走る自動車の低周波、・・・そういう雑多なものにわたしは酔った。
 わたしは、カミュがわたしの恋人で、その恋人の死を彼が語っているのではないかという錯覚を覚えた。
 でも、現実はそうじゃない。あのとき、わたしにとって最も恋人らしかったのは、彼だった。そして、わたしが酔っていたのは、彼にだった。好きでも嫌いでもない彼にわたしは酔っていたのだ。
 彼は経営経済学部の秀才で、様々な才能を持っている好男子、日本を代表する商社への就職が内定している。生涯所得が、わたしがいまエントリーしようとしている企業の倍以上もある。社会人人生の始まりの時点で、所得格差が確定している。
 彼はわたしの兄のようで、寛大な好意で、わたしを包んでくれる。彼の行為と寛大さは、小学校の算数のように良く分かる。豆腐やこんにゃくのように、よく噛まなくても飲み込める。彼はわたしを絶対に束縛せず、彼の自由よりも、わたしの自由の方を尊重してくれる。
「まさに、それが本当の愛、理性的な、知的な、高踏的な愛だ」
と言わんばかりに。
 確かに、あなたのわたしに対する好意は、あなたにとっては、本当の愛であるのかもしれない。あなたの望むように、わたしはあなたに全く煩わされることもないし、あなたを重荷と感ずることもない。
 わたしにとってあなたはガラスのないガラス窓のようなもの。あなたは、わたしに、
「君がどうしようと君の自由だ」
と口癖のように言う。あなたの言葉を借りれば、まるでジャン・ポール・サルトルが、人生の岐路で迷って相談にやってきた学生に、
「どちらを選ぼうと君の自由だ」
と言い放ったように。自分で決断できない優柔不断な学生が、
「どちらを選ぶかは君の自由だ」
と言われても、悄然とするだけだ。