でもI love youやJe t’aimeやIch liebe dichなら別。この言葉は米英仏独の恋人たちが、まるで、朝昼晩の挨拶代わりに使うから、言葉というよりは、接吻するときの溜息に近い。紅毛碧眼の恋人たちは、熱い接吻をして息切れ、呼吸を整え、愛撫をしながら、次の接吻に移る間のマを持たせるために、そう言う。
 昭和生まれの日本人は、あまり感情を言葉にしないし、しないほうが美徳とする趣を未だに持っている。だから、愛する行為のさなかで、
「愛している」
と言うのは、おかしく聞こえるのだ。あたかも、第一幕の登場人物が語る必然性もないのに自分の身の上を滔々と語るように。
 日本語の「愛」は、loveという英語よりも、より観念的な意味を持っている。直江兼続が兜の前立に、「愛」を用いたのがいい例だ。「愛」にはエロス的なものよりも、プラトニックな語感がある。だから、忍ぶことを前提とするプラトニックな「愛」という言葉を人前で妄りに多言すると、その「愛」という言葉がプラトニックな意味合いを失い、発せられた言葉と、日本語として、その言葉が本来持っている言葉との間に、夥しい齟齬が生じ、酷く滑稽なものになる。
 日本語の「愛」は心の中で発せられる。なぜなら、プラトニックであることは、アンドレ・ジッドの『狭き門』のジェロームとアリサの関係のように、秘められていることを条件とするから。その限りにおいて、「愛」はその人、個人のものになる。
 愛する女が千人いれば、千通りの「愛」という言葉が生ずる。それぞれの言葉は、それぞれに異なった意味合いを持っている。ある人にとっては、「愛」とは、接吻することであり、またほかの人にとっては、抱擁しあうことであり、閨房を共にすることであるかもしれない。それらの「愛」の言葉の中で、人前に出してもいい「愛」とは、悲しい愛の形だけだ。たとえば、近松門左衛門の『曽根崎心中』のお初と徳兵衛の心中愛のような。