本の間からちらつく瞳が
  わたしの心 弄んでいる
   だめ 我慢できないもう
    ブルー ブルーメランコリー
  あなたのせい ただ ただ切ない
  試験前の 午後の図書館


 


九月十一日

 愛とか恋とかいうものは、それを言葉に置き換えると、恐ろしく空々しい歯の浮くようなものになる。この感覚は日本では20世紀中に失われたものかもしれない。
 たとえば、あるフランス映画で、女主人公の女友達が夏休み明けの大学で会った途端に、
「いま、わたし恋をしているの!」
と叫んだ。こんなあけっぴろげな言葉は、少なくとも、20世紀中に友達から聞いたことはなかった。
 吉田さんみたいに快活で陽気な人でも彼女が中学生だった時に、マーク・レヴィン監督の『小さな恋のものがたり』のような恋愛をしていたことは、一言も口に出さなかった。
 また、アーネスト・ミラー・ヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴る』のような烈々たる恋愛映画の中で、イングリッド・バーグマンのように秀麗なヒロインがよく撓う柳のように抱擁され、接吻されながら、
「愛しているわ」
と言うとき、その言葉は、わたしの耳には恐ろしく空虚に響く。背骨の痛くなるほど抱擁され、上唇がまくりあがるほどに強く口づけされてるのに、なぜ、
「愛しているわ」
と吐露しなければならないのだろう。
 なかにし礼作詞の『手紙』のように、愛の言葉の横溢している手紙の中に書かれているのならまだわかる。でも、現に愛する行為の中にある最中に、その愛する行為の具象性と比較すると、どうしても抽象的でしかない言葉を発することは首肯できない。それは、
「愛し合っている恋人たち」
というのと同じこと。愛し合うという具象的な行為は、恋人たちという言葉の中に包摂されている。恋人たちだから愛し合うのではなくて、愛し合うから恋人たちなのだ。それなのに、わざわざ、愛し合っているという形容詞をつけることは、この上もない蛇足になる。だから、愛する行為をしながら、
「愛している」
といえば、その人の意識が見え透いてくる。抱擁しながら、接吻しながら、男の人が、
「愛している」
と言えばそこに不純な男の心理が介在している証左となる。
 女性の荷物を持ってあげている男の人が、どうして、
「わたしは、あなたの荷物を持って、あなたを助けてあげています」
などと言うだろうか。