やがて行き着くところが、那辺なのか。どうして見ようとしないのだろう。上に行けば天空が広がり、宇宙には果てのないことは分かり切ったことだし、水平に行けが地球は丸いのだから、フェルディナンド・マゼランのように、いつかは出発地点に戻る。下に行けば、ジュール・ヴェルヌの『地底旅行』のマグマの焦熱地獄。
このハシカのような乱痴気騒ぎは、砂漠に振った雨水が際限なく吸い込まれていくように、三流ジャーナリズムの砂漠に吸収される。あとかたもなく傍流ジャーナリズムに吸収されれば、吉行淳之介の『驟雨』のあったことすら忘れ去られ、豪雨も椿事ではなくなる。
そこで井上陽水の『傘がない』のような歌が生まれる。
あ あ あ 雨が降りそうです
ゆ ゆ ゆ 夢を流しそうな
雲よ 雲よ 夕陽を抱きしめ
早く 明日へ 流れてほしい
ああ 明日 雨が降りそうです
ああ 明日 夢を流しそうな
あなたが あなたが 濡れてしまう
明日 明日に 降る雨にあなたが
あ あ あ 愛が消えそうです
く く く 雲に掻き消されて
星よ 星よ 朝陽を引き連れ
早く 明日へ 運んでほしい
ああ 明日 愛が消えそうです
ああ 明日 雲に掻き消されて
あなたも あなたも 消えてしまう
明日 明日に 垂れ込める雲に
だ だ だ だから御願いです
あ あ あ 明日流す涙
海へ 海へ 注いで下さい
きっと明日は神様晴れに
ああ 明日 晴れになりそうです
ああ 明日 夢が叶いそうな
空に 空に 溶けてしまいそう
明日 明日の青空に二人
革命が起これば必ず革命政府が作られ、政府があるという点では革命以前に戻り、革新が保守となるように、椿事が起きてニュースになれば、もはやそれはスキャンダルではなくなる。トマス・モアの『ユートピア』のような理想郷はないのだ。あるとすれば、ゴダイゴの『ガンダーラ』程度だ。
ひとたび目指していたことが成就されれば、その過程で人々が得た心の高ぶりは過去のものとなる。だからエルネスト・ゲバラは後始末は盟友フィデル・カストロに任せて、キューバを去ったのだ。椿事が起こったとしても、その椿事が定着すれば、椿事ではなくなり、日常茶飯となる。
このハシカのような乱痴気騒ぎは、砂漠に振った雨水が際限なく吸い込まれていくように、三流ジャーナリズムの砂漠に吸収される。あとかたもなく傍流ジャーナリズムに吸収されれば、吉行淳之介の『驟雨』のあったことすら忘れ去られ、豪雨も椿事ではなくなる。
そこで井上陽水の『傘がない』のような歌が生まれる。
あ あ あ 雨が降りそうです
ゆ ゆ ゆ 夢を流しそうな
雲よ 雲よ 夕陽を抱きしめ
早く 明日へ 流れてほしい
ああ 明日 雨が降りそうです
ああ 明日 夢を流しそうな
あなたが あなたが 濡れてしまう
明日 明日に 降る雨にあなたが
あ あ あ 愛が消えそうです
く く く 雲に掻き消されて
星よ 星よ 朝陽を引き連れ
早く 明日へ 運んでほしい
ああ 明日 愛が消えそうです
ああ 明日 雲に掻き消されて
あなたも あなたも 消えてしまう
明日 明日に 垂れ込める雲に
だ だ だ だから御願いです
あ あ あ 明日流す涙
海へ 海へ 注いで下さい
きっと明日は神様晴れに
ああ 明日 晴れになりそうです
ああ 明日 夢が叶いそうな
空に 空に 溶けてしまいそう
明日 明日の青空に二人
革命が起これば必ず革命政府が作られ、政府があるという点では革命以前に戻り、革新が保守となるように、椿事が起きてニュースになれば、もはやそれはスキャンダルではなくなる。トマス・モアの『ユートピア』のような理想郷はないのだ。あるとすれば、ゴダイゴの『ガンダーラ』程度だ。
ひとたび目指していたことが成就されれば、その過程で人々が得た心の高ぶりは過去のものとなる。だからエルネスト・ゲバラは後始末は盟友フィデル・カストロに任せて、キューバを去ったのだ。椿事が起こったとしても、その椿事が定着すれば、椿事ではなくなり、日常茶飯となる。