彼女が出ていったことにより、部屋の中は少しだけ寒くなった。人が1人減ったからかな、物が少なくなったからかな、こんな寒い日は、熱々の温度のお風呂が恋しくなる。ぬるま湯になんか浸かってられない。一日一日を精一杯過ごしていたら、夜なんてぐっすり眠れる。ぬるま湯になんかに頼る必要なんてない。

 悲しくないと言えば嘘になるが、涙は出なかった。喧嘩による怒りの余韻がまだ残っているからか、まだ泣けるほど状況を整理できていなかったからか、理由は分からないけれど。

 正直、僕も彼女も間違ってはいないと思う。僕がカニクリームが大好きなのは事実、彼女が牛肉コロッケが大好きなのも事実。その事実が2人とも許せなかった、互いに譲ることが出来なかったというだけで。

 普通なら、別に何ともないこと。ただの食の好みの違いだねで終われる話、喧嘩をしたとしても2、3日で、自然と仲直りしていると思うけれど、価値観や内面を重視していた僕たちだから、相手に自分の理想を押し付けすぎてたため、相手が自分と価値観が違うことが許せなかったのだと思う。必要以上に求めすぎていたのだ。

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「彼女にも、食べさせたかったな。今は亡き母が作ってくれたカニクリームを。あれを食べたら、きっと彼女も、カニクリームを1位だと認めてくれただろう。カニクリームの魅力に気付いてくれただろう」
 熱々のお風呂に入りながら僕は、そんなことを考えていた。母は亡くなっているし、彼女は出ていった。そんな絶対に叶うことのない夢を想像していた。

 僕が、カニクリームを好きになったきっかけは、母にある。カニクリームが大好きだった母が、よくカニクリームを作ってくれていた。母のカニクリームは美味しいだけじゃない、母のカニクリームには、不思議な力があった。

 テスト、弁論大会、運動会、受験。
 大切なことがある前の日に、母の作ってくれたカニクリームを食べると、何かとうまくいった。母の愛情がこもっていたからか、実力以上の力を発揮できた。何度も何度も、カニクリームに助けられた人生だった。

 それからだ、カニクリームを好んで食べるようになったのは。もちろん、母が作ってくれるカニクリームが一番美味しかったけれど、他のカニクリームも十分美味しかった。カニクリームが好きだった母に、似たのだろう。