先日、2年間付き合っていた彼女と「コロッケ」が原因で別れた。誰もが好きであろう食べ物の「コロッケ」が原因で……
 今思えば、本当にくだらないことで喧嘩して、人には言えないような恥ずかしい別れ方だとは思うけれど、僕も、まだまだ大人にはなりきれずにいた。
 自分の意見を曲げて、誰かに合わせたり、相手を傷付かない言葉選びだったりすることができなかったのである。一人っ子で、多くの人に可愛がって貰っていたこともあって、昔からわがままな性格ではあった。喧嘩する兄弟がいなかったから、基本な自分の思い通りになった。何かを我慢する経験なんて、ほとんどなかった。

 そんな僕でも、好きでいてくれるだろう、許してくれるだろうと、どこかで彼女に甘えていた部分もあったのかもしれない。今思えば……
 今更、後悔しても遅い、どうにもならない。だって僕は、スーパーヒーローでも、選ばれし者でもないから、時間を戻す能力なんて持っていない。過ぎた時間は、取り戻すことはできない、言ってしまったことを言ってないことにもできないのだ。

 ※※※ 

 正直に言えば、彼女は美人とは言えなかった。特段らコミュニケーション能力が高いわけでもなかったので、大学でチヤホヤされるような感じもなかった。
 それでも彼女を好きだと思えたのは、彼女とは、色々なものの好みが同じだったから……
 俗に言う波長が合うってやつ。人間生きている中で、そんな人と巡り会える確率なんて相当低い。

「大きくなったら、僕、芸能人と結婚する」
「付き合うなら、美人だね。絶対に美人がいい。この中の誰よりも美人と付き合ってやる、結婚してやる!」
 昔、こんなことを言っていた僕からしたら、成長したと思う。人を外見ではなく、内面で好きになれたのだから。
 地元の幼なじみに彼女のことを紹介したら、驚いただろうな。結局、紹介することはなかったけれど。
 
 彼女とは、面白いくらいに気が合った。

 趣味は映画鑑賞と水族館巡り。好きな映画のジャンルはアクション系。映画館では、映画に集中するためにポップコーンは絶対に食べないという映画への向き合い方まで同じ。推しの海洋生物は、ペンギン。おそろいで買ったペンギンのマグカップにお互い名前を付けることにしたが、どちらも「ペンカちゃん」という名前を付けていた。
 サスペンスドラマを見ている時は途中で犯人が分かっても言わないでおく。コーラよりもサイダーが好き。好きなものは最後まで取っておくタイプ。目玉焼きにはソースをかける、味噌汁は白味噌、ご飯は少しかための方が好み。どんなに忙しくても、いただきますとごちそうさまだけは言う。
 それぞれ、違う家庭、違う環境で育ったというのに、不思議だった。


 最初は恋愛対象というより、気心知れた友だちのように感じていた。ここまで気が合う人は、今までの友だちでもいなかった。
 たぶん、僕らが同じ性別だったら、良き親友になれたと思う。
 だけど、僕は男で彼女は女。それ以上の関係を求めてしまう、求められてしまう。僕と彼女が二人っきりで遊園地に行ったとする。それは、周りから見れば、遊びではなく、デート。世の中ってそういうものだ。
 

 彼女もまた、同じように僕とは波長が合うと感じてくれたようで、僕たちは告白という告白なく、自然と流れ的に気づいたら付き合っていたという感覚だった。(一応、僕ら2人の中では、同棲を始めた日を交際スタートとした)
 これは互いが恋愛において、内面を尊重しているものたちの特権みたいなものだ。顔を好きになった系の人たちは、一度告白という段階を挟まなければならない。それはそれで、ワクワクや楽しみがあるのかもしれないけれど。

 波長が合う僕らだから、同棲する中で、不自由なことも不満もなかった。喧嘩なんてそれまで一度もなかった。
 周りの人間たちからは、「喧嘩しないなんて、お前らは本当に仲良くていいね」「喧嘩はしないに越したことはないよ。喧嘩すると、絶対に嫌な気持ちになるから」なんて言われて羨ましがられていた。普通は、付き合い始めて3ヶ月、同棲を始めて1ヶ月、そういった節目節目に何かしらが原因で揉めるらしい。

 言われた通り、喧嘩はしないに越したことはない。これからもずっと喧嘩なく仲良く過ごしていければ、僕らはこのまま自然と結婚して、子どもが出来て、幸せに暮らしたのかもしれない。両親が喧嘩せず仲良く暮らしているのは、子どもにとってもいい影響を与えられたかもしれない。

 だけど、今まで喧嘩をしたことがない。僕らにとっては、これこそが、大きな問題だったのだと思う。あの日まで僕らは、1度も喧嘩をしたことがなかったから、分からなかったんだ。喧嘩した後、どうやって仲直りすればいいかってことを。どんな風に声を掛ければいいかを。

 こうなるんなら、もっと喧嘩をしておくんだった。どちらかが約束の時間に遅れてきたとか、サスペンスドラマの犯人の名前をうっかり口に出しちゃったとか、そういうレベルでいいから、些細なことで喧嘩しておくべきだった。

 「喧嘩するほど仲がいい」なんて言葉があるけれどあれは、本当だ。本当に喧嘩する必要まではないけれど、いつでも喧嘩はできるような関係であるべきだ。それが、仲がいいってことなんだと思う。
 休みの日、晩ごはんを食べる前に何気なく2人で見ていたテレビ番組の中で、「一番好きなコロッケランキング」なるものが、順に発表されていた。別に、この番組が絶対に見たいってわけでもなかったから、すぐにチャンネルを変えればよかった。

 一番好きなコロッケランキング、第5位 カボチャコロッケ、第4位 カレーコロッケ、第3位 コーンクリームコロッケ。

 残すは1位と2位のみとなった時、彼女に尋ねられた。
「1位のコロッケは何だと思う? 私さ、コロッケといったらこれってのがまだ残ってるんだよねー」
 それは僕も同じだった。コロッケといえば、これというものが残っていた。それにおそらくランキング1位は、それだろうと思った。

「コロッケ? そりゃ、好きなコロッケと言えばカニクリームでしょ。これは、カニクリームが1位だよ」
 カニクリームが1位だと思っていた僕の気持ちに嘘はない。この答え方も間違っていたとは思えない。正直、僕の中でコロッケと言えば、カニクリームだったから。そして、彼女もまた、カニクリームと答えると思っていた。

 ――だけど、彼女の答えはカニクリームではなかった。 

「えっ? コロッケっていったら牛肉でしょ? それ以外は考えられないよ。ありえない、ありえないよ
。1位は牛肉しかないって」
 そう言う彼女に対し、僕は応戦するように言い返した。

「え? 牛肉コロッケ? いやいや、カニクリームを差し置いて、牛肉コロッケ出てくる? コロッケを語る上で、カニクリームは避けては通れないでしょ? もし、これまでの人生でカニクリームを口にしたことがないなら、一度食べてみるといいよ」

――今思えば、僕も少し大人げなかったとは思うが、この時は彼女の「コロッケといえば絶対に牛肉コロッケ」という決めつけたような言い方と姿勢が、実に気に入らなかった。

「高級食材であるカニ。高級食材が使われているコロッケは、カニクリームしかないよね。あの、まろやかでクリーミーな上品な味を、人々は好むんだよね〜。上品な味ってのが分からない人には、無理な話かもしれないけれどね」

「いや、牛肉だって、高級店の肉を使えば、高級食材が使われていることになるんだけど? とはいっても牛肉はカニクリームコロッケのような卑怯な方法ではなく、王道かつストレートな味が老若男女に愛されているのよね。われが主役だぞと己を主張してくるカニと違って、牛肉はあくまでコロッケの味を引き立てるサブに徹しているから」
「それに、家庭の味のコロッケと言ったらみんな牛肉でしょ。お母さんが作る懐かしいコロッケの味。それぞれ家庭の味があると思うけれど。食べただけで、色々なことを思い出し、つい涙が溢れる。そんな思い出がない人には、難しいかもね。それを理解することは……」

「牛肉コロッケを食べて泣ける……?」
「アニメや小説じゃないんだからさ、そんな話あるわけないじゃん。トンカツと間違えて、からしでも付けたんじゃないの?」

 彼女は牛肉コロッケの魅力を、僕はカニクリームの魅力を主張し合った。主張するためだけならまだしも、僕らは、主張するために相手を罵り始めた。上品だとか、家庭の味とか、関係のない話題まで持ち出していた。

 
 僕らがもめている間に、番組ではコロッケランキングの1位と2位の発表がされた。

第2位 牛肉コロッケ、第1位 カニクリームコロッケ。

……結果的に僕は、間違っていなかった。なぜならカニクリームが1位だったのだから。票数も20票以上も差があった。

「ほらね……やっぱりカニクリームじゃん。カニクリームが1位だったじゃん」
 僕がランキングの結果でマウントを取ると、彼女は気に入らなそうにテレビを消した。

「何よ、所詮、ただのテレビのアンケート結果じゃない。信用ないわよ。他のところで集計したらきっと、違う結果が出たはずよ。だからこれは、正式な結果とは言えないでしょ?」

「確かにね。正式かどうかは僕にも分からないよ。でもね、君が言い出したんだよ、この番組の1位のコロッケは何かって? その結果、カニクリームが1位でした。結果は出ているんだよ」
 「どっちも美味しいよね」で解決するレベルの話、どちらかが折れれば済む話だけれど、僕らはお互いのことを波長が合うと思っていたから、好きなコロッケが違うことが、どうしても納得できなかった。

「あなたの好きなコロッケが、カニクリームコロッケだったなんて、正直ガッカリした……あなたは、本当はもう少し家庭的な人なんだと思っていたけど、違ったのね。仕事や自分の好きなことばかり優先するタイプってことね」

「ガッカリした? それは、こっちのセリフだよ」
「君の好きなコロッケの1位が牛肉コロッケって……何の冗談? 別に僕も、牛肉コロッケが嫌いなわけではないけれど、コロッケランキングベスト3に入るようなものではないね。僕のベスト3は、カレーコロッケ、カボチャコロッケ、カニクリーム」

「私だってカニクリームコロッケだけはない。あれはほぼ、グラタンじゃない。そもそもカニクリームコロッケがコロッケに分類されている事自体、私は納得できないけど。コロッケを食べようって話になって、カニクリームコロッケを食べるなんて、牛丼食べようって言って牛丼屋に行ったのに、親子丼食べるくらい意味わからないんだけれど」

「いやいやいや、実際にランキングもカニクリームが1番て出ていたけどね。それは、少なからず全国民が、カニクリームをコロッケだと認めているってことだからね。牛丼屋で食べる親子丼とは、一緒じゃないから!」

「本当、意味が分からない。なんでカニクリームコロッケなの?」

 険悪なムードが流れ、それ以降、僕らは、「いただきます」と「ごちそうさま」以外の言葉を発することなく晩ご飯を食べ終えた。この日メニューは唐揚げ。僕も彼女も唐揚げが大好きだから、本当なら楽しい食事になるはずだったのに……

 ご飯をおかわりして、美味しいねなんて言い合って、デザートに少し高いアイスを食べようと思っていたのに。

 僕は、お風呂に入り、歯を磨くと、彼女に「おやすみ」も言わずに寝た。

 モヤモヤした気持ちのままだったからか、その日は悪夢だった。
 近所を散歩中、ゾンビの大群に襲われた僕と彼女。カニクリームシールドを装備していた僕は助かったが、牛肉コロッケシールドを装備していた彼女は、防御力が弱すぎたため、攻撃をまともに受けてしまい、その場に倒れてしまった。回復アイテム牛肉コロッケを彼女に食べさせたが、彼女が回復することはなかった。
 彼女も価値観や波長が合うなど、内面的な要素を重視していたため、僕がカニクリームが大好きだったことが相当気に入らなかったのか、次の日も彼女の機嫌が直ることはなかった。

「おはよう……」
 気を使って小さな声でこちらから声を掛けたが、彼女は無視。外見が好きになってくれたわけではないから、僕の顔を見た所で機嫌がよくならないのだろう。確かに僕は、イケメンではない。

 いつものように挨拶さえ返してくれれば、こちらから謝ろうと思ったが、無視をされたので、謝る気が失せた。むしろ、さらに怒らせてやろう、イライラさせてやろうと思った。

「はぁーこっちがせっかく折れて挨拶をしてあげたというのに、無視ですか、そうてすか、無視ですか、牛肉コロッケさんは……」
「まったく家庭的じゃない。挨拶1つできない人のどこが、家庭的なんだろうか」
 彼女に聞こえるように、大きめな声で独り言を言った。嫌味を言われればさすがの彼女もこれには 無視はできないだろうと。

「無視じゃなくて、聞こえなかっただけです。滑舌悪いから、もう少しはっきり話した方がいいよ。それとも、カニクリームコロッケさんは、カニ語でも話していたのかな? 一体、どこに上品さがあるんでしょうね?」

「あれ〜おかしいな〜。昔から滑舌と歯並びは褒められてきた方なんだけどな〜。中学の時、弁論大会で1位になったことあるんだけどな〜」
「あれかな、1位になったことない人に限って、順位とか関係ないとか言い出すんだよね。1位に対する劣等感ってやつ?」
 好きなものだけでなく、ある意味、性格も似ていたのである。負けず嫌いな所とか、意地っ張りな所とか、自分の意見を曲げない所とか。
 似たような性格の人間の争いは長引く。引かない男と引かない女の戦いは、どちらかが倒れるまで、この争いは終わらないのだ。

「中学って……そんな昔の話を持ち出して、恥ずかしくはないのかな?」  
「それに、この際だからはっきり言わせてもらうけど、あなたが入った後のお風呂は熱すぎて快適ではなかったから。ずっと我慢して言わなかったけれど、私、お風呂は昔からぬるめのお湯につかるようにしてるの。その方が健康に良いし、夜ぐっすり眠れるから」
 とうとう彼女が関係ないことまで、持ち出してきた。こんなことを言われると僕も反論しないと気が済まないたちで。
 ここからは、ルール無用の殴り合いが始まる。お互いが思っている不満、嫌いな所。この際、思っていなくたっていい。自分がいかに正しく生きているのかを示せればそれでいいのだ。もう、コロッケは関係ない。ここまで来たら、相手を否定できれば、なんだってよかったのだ。

「知らないよ。今、初めて聞いたんだから、自分の好みの温度にするよ」
「ていうか、それくらい言ってくれてもよくない?    
 ぬるま湯が好きなら、私ぬるま湯がいいんだけれどって一言、言ってくれれば、僕が出るときに水を足して、ちょうどいい温度にしておいたけどね。知ってればそれくらいの気遣いはできるけれど、声に出してもらわないと、そんなの分からないからね。僕は超能力者じゃないんだからさ」
「それに、僕は好んで一番風呂に入っていたわけじゃないけれど? 君がいつまでもテレビを見ていたりするから、僕が先に入らせてもらっているだけで、風呂に入る時間が遅くなるのは僕のせいじゃないからね?」

「ちょっと待って、なにそれ? 私がいつまでもテレビを見ているって? 私は食器を洗ったり、洗濯物を畳んだりしてやることが多くて忙しいから入れなかっただけだけど? じゃあ少しくらい手伝ってくれてもよかったんじゃない? 家庭的じゃないから、それすら難しいのかしら?」
「できないのならできないで仕方ないけれど、せめて、ありがとうくらいは言ってほしかったけどね。あなたの口からありがとうって言葉、ほとんど聞いたことないんだけれど。ありがとうって言葉、あなたの辞書には載っていないのかしら?」

「ありがとう? 僕は言ってるつもりだけどね。それを言うなら家賃、僕の方が多く払っているでしょ? それに関してのありがとうも、ごめんねも一度も聞いたことはないけれど、当たり前だと思っていたってこと?」

「家賃って、全部あなたが払ってくれているわけじゃないじゃない? 少し、ほんの少しだけ多く払ってくれているだけじゃない。家事、洗濯、全て変わってくれるなら、家賃全額払ったわよ、私が……」

 1度ヒビの入ったガラスを割ることは、軽い衝撃だけで、次々にヒビが入る。1度ヒビの入ったガラスを割ることなんて簡単だ。そんなヒビの入ったガラスのように僕らの関係は徐々に悪くなる一方だった。

 価値観が同じ、波長が合うとはいっても、クローン人間ではない限り、全てが全く同じなんて無理な話だ。全てが同じだというならそれはどちらかが無理している、どちらかが無理やり合わせているだけだ。
「前から言おうと思っていたけれど、その猫背、みっともないから、いい加減 治した方がいいと思うけれど。自信がなく、弱々しい人に見えるけど? もしかして、カニの次は猫の真似ですか?」

「それなら、僕も言わせてもらうけれど、君の料理の腕はそこそこだからね。見た目も味も……君は気づいていないかもしれないけれど、そこそこだよ」
「僕は、わりと何でも食べられる方だから、どんな料理も文句を言わずに残さず食べていたけれど、あれは、SNSにあげて自慢するようなレベルではないよ。表面上ではいいねを押されていたとしても、心の中では、きっと笑われているよ。こんなレベルでわざわざあげてるよってね。ごめんね、配慮が足りなかったね。君がSNSにあげるまえに、君が恥をかく前に教えてあげるべきだったかな?」

「はあ? 今の凄く頭にきた」
「それを言うならさ、あなたが気づいていないこと教えてあげる。あなた、自分で上手いとかテクニックがあるとか思ってるかも知れないけれど、全然上手くないから……慣れていないのバレバレだから。ただ、私が演技してあげてただけだからね。恥をかくのはあなたの方じゃないの?」

「ふーんそっか。それを言うなら僕は、大きい方が好きだけどね。君は貧相だけど、そこは妥協してたんだけどな……」
 これは本心ではなかった。僕は大きさなんて気にしたことはなかったけれど、彼女がそのことをコンプレックスにしていたことを知っていたから、彼女が怒るだろうと思って、あえて言った。

 ――罵倒合戦。
 互いにあることないことを相手にぶつける。だから、罵倒できれば何でもよかった。

 これは相当怒るだろうな。
 怒って次は、どう罵倒してくるのだろう?
 次は、こっちは何を言おう?
 と構えていたが、彼女は何も言い返すことなく、泣き出してしまった。余程気にしていたのか、大きな声で泣く。泣きながらブツブツと何かを言っているが、言葉は聞き取れなかった。

 俺の言葉の右フックが、彼女にクリーンヒットしたため、この試合は終わった。彼女はその場で泣き崩れる。正直 彼女がこんな姿を見せるなんて思ってもいなかった。彼女はどちらかというと打たれ強く、こんな言葉くらいではビクともしないと思っていた。勝手に僕がそう、思い込んでいた。
 
 彼女のことを全て知ったつもりでいたけれど、僕は彼女に知らないこともあったことを気付かされた。彼女、こんな風に泣くんだ。彼女の笑顔は何度も見てきたけれど、彼女の泣き顔は見たことなかった。映画とか見て感動して泣くタイプでもなかったし。

 ――思ってもいないこととはいえ、彼女を泣かせるくらい傷付けたことには変わりない。それに関しては申し訳ないと思った。

「……ごめん。ごめん言い過ぎた。僕も本心で言ったわけじゃない。大きさを気にしたことはないよ。ほら、なんていうか、売り言葉に買い言葉というか、僕も必死だったから、つい……」

 今さら謝っても遅かった。
 言ってしまったことを撤回することは出来ない。本心じゃないと言っても、本心か本心じゃないかを証明する手段なんてない。

「別れる……」
「あんたなんか、好きじゃないから……」
 
 そう言われた時に、嫌だと言えばよかったのかもしれない。土下座でもなんでもして本気で謝ればよかったのかもしれない。僕も泣くべきだったのかもしれない。
 だけど、また変なプライドが邪魔をしたのだ。こちらは謝ったというのに彼女の方は謝るどころか、許してすらくれなかったことが気に入らなかった。

「そうだね……その方がお互いにいいかもね」 
「僕らは、別れるべきだよ」
 
 僕の言葉に対して彼女は、何も言わず、黙って頷いた。彼女がこの時、どう考えていたかは分からないけれど、おそらく彼女も、自分で別れると口走った以上、撤回するわけにはいかなかったのだろう。彼女のプライドが、「やっぱり今のは噓」だなんて言葉を言わせなかったのだろう。
 
 ここで、「別れたくない」という言葉を発した方が負けになる。負けを認めることになる。僕らの性格上、負けは認めたくない。

「私が出ていくから。あなたの方が家賃多く払っているんだから、あなたはここに住み続ければいい。私は、実家近いから、実家に帰る」
 彼女は、その日のうちに荷物をまとめてアパートを出ていった。

 アパートを出ていく時に彼女が最後に発したのは、「私が必要なものは全て運びましたので、あなたがいらないものが、もし残っていたら捨ててください」と業務連絡のような言葉だった。

 必要なものは全て運んだと言っていた彼女。僕が誕生日に買ってあげたバッグや、お揃いで買ったマグカップのペンカちゃん等は、部屋に置きっぱなしにしてあった。僕との思い出の品は全て、彼女にとって必要ではないものらしい。そうだとしても、持って帰って見えない所で捨ててくれればいいのに、いるかいらないかの判断を僕に委ねるだなんて。最後の最後まで僕に、嫌がらせをしていった。
 彼女が出ていったことにより、部屋の中は少しだけ寒くなった。人が1人減ったからかな、物が少なくなったからかな、こんな寒い日は、熱々の温度のお風呂が恋しくなる。ぬるま湯になんか浸かってられない。一日一日を精一杯過ごしていたら、夜なんてぐっすり眠れる。ぬるま湯になんかに頼る必要なんてない。

 悲しくないと言えば嘘になるが、涙は出なかった。喧嘩による怒りの余韻がまだ残っているからか、まだ泣けるほど状況を整理できていなかったからか、理由は分からないけれど。

 正直、僕も彼女も間違ってはいないと思う。僕がカニクリームが大好きなのは事実、彼女が牛肉コロッケが大好きなのも事実。その事実が2人とも許せなかった、互いに譲ることが出来なかったというだけで。

 普通なら、別に何ともないこと。ただの食の好みの違いだねで終われる話、喧嘩をしたとしても2、3日で、自然と仲直りしていると思うけれど、価値観や内面を重視していた僕たちだから、相手に自分の理想を押し付けすぎてたため、相手が自分と価値観が違うことが許せなかったのだと思う。必要以上に求めすぎていたのだ。

※※※

「彼女にも、食べさせたかったな。今は亡き母が作ってくれたカニクリームを。あれを食べたら、きっと彼女も、カニクリームを1位だと認めてくれただろう。カニクリームの魅力に気付いてくれただろう」
 熱々のお風呂に入りながら僕は、そんなことを考えていた。母は亡くなっているし、彼女は出ていった。そんな絶対に叶うことのない夢を想像していた。

 僕が、カニクリームを好きになったきっかけは、母にある。カニクリームが大好きだった母が、よくカニクリームを作ってくれていた。母のカニクリームは美味しいだけじゃない、母のカニクリームには、不思議な力があった。

 テスト、弁論大会、運動会、受験。
 大切なことがある前の日に、母の作ってくれたカニクリームを食べると、何かとうまくいった。母の愛情がこもっていたからか、実力以上の力を発揮できた。何度も何度も、カニクリームに助けられた人生だった。

 それからだ、カニクリームを好んで食べるようになったのは。もちろん、母が作ってくれるカニクリームが一番美味しかったけれど、他のカニクリームも十分美味しかった。カニクリームが好きだった母に、似たのだろう。
 これが、僕が2年間付き合っていた彼女と別れた経緯である。カニクリームに助けられてきた人生だったけれど、まさか、カニクリームに幸せを妨げられるとは……
 いや、違うな、これはカニクリームのせいではない。カニクリームは悪くない。悪いのは、牛肉コロッケの方だ。2位だったくせに、彼女の心を奪いやがって。

 僕は、自らを肯定するためだけに、スーパーでカニクリームと牛肉コロッケを1つずつ買って食べた。カニクリームの方が60円高かったが、売れているのはカニクリームの方だった。テレビ番組のランキングはやはり、嘘ではなかった。

 どちらも何もかけずに食べた。ソースや醤油で誤摩化さず、コロッケそのものの味で、判断したかったから。

 カニクリームは美味しかったが、牛肉コロッケは僕の口には合わなかった。
 これから牛肉コロッケは、僕の中で一番嫌いな食べ物になると思う。コロッケの中でじゃない、全ての食べ物の中で。ピーマンよりゴーヤよりしいたけよりも、牛肉コロッケが嫌いだ。

 彼女が大好きな食べ物が、僕は大嫌いになる。
 彼女のことも大嫌いになる。

 だってさ、波長の合わない彼女に、何の魅力もない。

 ――だけどなぜだろう?
 彼女のことを嫌いになったはずなのに、牛肉コロッケを食べ終えた僕は、部屋の中で1人、静かに泣いていた。

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