◆◇
実織と出会ったのがいつだったのか、はっきりと覚えていない。たぶん、小学2年生ぐらいだったと思う。小学校の帰り道、その日はいつも一緒に帰る友達が欠席していたのか、一人で帰っていた。一人ではつまらなくて、小石をけりながらゆっくりと歩いた。もしかしたら、周りの人から寂しいやつ、と思われたくないというほどのプライドがあったのかもしれない。
何度も標的の石を見失いそうになりながら歩いているうちに、家の近くにある公園がふと視界に入った。べつに特別な場所というわけではなく、毎日行きと帰りの2回は目にする公園で、友達ともよく遊ぶ場所だ。その公園は、滑り台とブランコほどの遊具しかない、いたってシンプルな造りの公園。
その日ブランコに、一人の少女が座っていた。
赤いランドセルを背負ったまま、ブランコを漕ぐでもなく足をぶらぶらさせている。
自分と同じくらいの歳の子だと直感的に思った。
幼い僕はその少女を見て何を思ったのか、ふらふらと公園に足を踏み入れ、少女のもとへ歩いていた。僕が近づいても気がつかないのか、彼女は顔を斜め45°上に傾け、ある一点を見つめて動かない。それは、ぼうっとしているわけでも、何か深く考えているわけでもなく、言うなれば“無心”の状態だった。僕は幼いながらもそういうことに気づいていた。
「何を見ているの?」
少女の横に立って話しかける。
「お星さま。たくさん光が見えるの。全部色が違うのよ」
彼女と同じように、空を眺めた。連なる屋根の向こうに、山が見える。どこにでもある田舎の風景を包み込む、まだらな雲の流れる空。
彼女は確かに「星が見える」と言ったが、僕には何も見えなかった。第一、まだ星の出る時間帯ではなく、ようやく日が暮れてきた頃だったのだ。
けれど、彼女には見えないはずの星が見えていた。
その光を、きっと心で感じていた。
「えー、星なんて見えないよう」
子供の僕には、彼女の話がまったく理解できない。首を伸ばし、背伸びをして空を見上げていると、ふらついて転げそうになった。
「きみの名前はなに? どうして一人でここにいるの?」
子供っていう生き物はまったくもって恐ろしい。初対面の女の子に、いきなり個人情報を聞き出せるのだ。いまの僕には到底無理だ。
しかし彼女は僕の不躾な質問を嫌がりもせず、くいっと顔をこちらに向け、柔らかく微笑んで答えた。
「方條実織。青葉小学校2年生。ここにいたのは、家に帰りたくないからだよ」
彼女の“微笑む”という動作と“家に帰りたくない”という台詞はあまりにミスマッチだった。思わず首をひねったほど。でもそれ以上に、彼女が自分と同じ学校で、同じ学年だということに嬉しくなった。
「へえ、僕も青葉小学校で、2年生なんだ」
「本当に! じゃあ、また会えるかもね」
とても弾んだ、嬉しそうな声だった。その時の彼女は、初めに目にした時のように“無心”ではなく、年相応の少女という感じがした。
それからどれほど話したのだろう、気づいたら本当に夜になっていて、本物の星が夜空に瞬いていた。
「もうそろそろ、帰らなくちゃ」
「そうね……、お父さんとお母さんが待ってるものね」
なぜかよく分からないけれど、その言葉を吐いた彼女がとても小さな存在に見えて、胸が疼いた。
「さようなら、敬貴くん」
「うん、またね」
お互いに手を振って別れを告げ公園を出たとき、はっとした。
なぜ彼女は僕の名前を知っていたのだろう。
名札はランドセルにしまってある。帰宅時につけっぱなしでは危ないと、母に言われていたからだ。
「まあいいや」
そんな不思議な出来事も、8歳の自分には大した問題でもなく、謎のままになってしまった。
彼女がこのあと家に帰って、機嫌の悪い母親の相手をして罵りを浴びながら夜を明かしたのか、それともずっと公園にいたのかなんて、知る由もない。
そう、この時の僕はまだちっぽけな子供で、彼女は小さな大人だったから。
空を見上げると星がとても遠くて、僕は精一杯背伸びをして手を伸ばしてみたけれど、何度挑戦してもひんやりとした空気を掴むだけだった。
その日以来、僕は何かと友達に理由をつけて、学校の帰りに公園に立ち寄った。
彼女はたいていブランコに座って本を読んでいた。僕は本に興味はなかったが、彼女に会うため毎日寄り道をした。
「今日は何の本?」
「これ」
彼女に本の表紙を見せられて分かった。
そこには「よだかの星」と書かれていた。宮沢賢治の作品だ。僕も一度読んだことがある。それにしても、名作なんてそれほど面白いものではないのに、なぜ彼女がいつも退屈な本ばかり読んでいられるのだろう。
「よだかは、実にみにくい鳥です」
彼女の声が、僕の耳に心地よい。
「顔はどろどろ、味噌をつけたようにまだらで、くちばしはひらたくて、耳までさけています」
よだかはとても醜いため、みんなから嫌われている。よだかは鷹の仲間ではないのに、“たか”という名前が入っているため、本当の鷹がとても気にかけて、嫌がっていた。
あるとき鷹がよだかに言うのだ。
名前を変えて、みんなに報告に行け。
そうしなければ殺してしまうぞ、と。
よだかは身も心もボロボロになりながら願うのだ。
『お日さん、お日さん。私をあなたの所へ連れてってください。やけて死んでもかまいません』
『東の白いお星さま、私をあなたの所へ連れてってください。やけて死んでもかまいません』
しかし、太陽にも星にも、よだかは相手にされなかった。
そうしてそのまま力尽きて星になるのだ。
今考えるとあまりに理不尽な話だ。これで児童向けの話なんだから不思議だ。
「よだかはかわいそうだよね。何も悪いことをしていないのに、死んじゃうなんて……」
僕は彼女に向かって率直な感想を述べた。
よだかは優しい心の持ち主で、何も咎められるようなことなんてなかったのに。
最後には命を奪われるのだ。
「そう、かな。よだかは望んで星になったんじゃないかな」
そう呟いた時の彼女の儚い声を、僕は今でも忘れられない。
彼女もよだかのように、本当に望んで亡くなってしまったから。ただ、彼女が何を思って自殺したのか、車にぶつかる瞬間に何を願っていたのか。
それだけを、僕は知りたかった。
実織と出会ったのがいつだったのか、はっきりと覚えていない。たぶん、小学2年生ぐらいだったと思う。小学校の帰り道、その日はいつも一緒に帰る友達が欠席していたのか、一人で帰っていた。一人ではつまらなくて、小石をけりながらゆっくりと歩いた。もしかしたら、周りの人から寂しいやつ、と思われたくないというほどのプライドがあったのかもしれない。
何度も標的の石を見失いそうになりながら歩いているうちに、家の近くにある公園がふと視界に入った。べつに特別な場所というわけではなく、毎日行きと帰りの2回は目にする公園で、友達ともよく遊ぶ場所だ。その公園は、滑り台とブランコほどの遊具しかない、いたってシンプルな造りの公園。
その日ブランコに、一人の少女が座っていた。
赤いランドセルを背負ったまま、ブランコを漕ぐでもなく足をぶらぶらさせている。
自分と同じくらいの歳の子だと直感的に思った。
幼い僕はその少女を見て何を思ったのか、ふらふらと公園に足を踏み入れ、少女のもとへ歩いていた。僕が近づいても気がつかないのか、彼女は顔を斜め45°上に傾け、ある一点を見つめて動かない。それは、ぼうっとしているわけでも、何か深く考えているわけでもなく、言うなれば“無心”の状態だった。僕は幼いながらもそういうことに気づいていた。
「何を見ているの?」
少女の横に立って話しかける。
「お星さま。たくさん光が見えるの。全部色が違うのよ」
彼女と同じように、空を眺めた。連なる屋根の向こうに、山が見える。どこにでもある田舎の風景を包み込む、まだらな雲の流れる空。
彼女は確かに「星が見える」と言ったが、僕には何も見えなかった。第一、まだ星の出る時間帯ではなく、ようやく日が暮れてきた頃だったのだ。
けれど、彼女には見えないはずの星が見えていた。
その光を、きっと心で感じていた。
「えー、星なんて見えないよう」
子供の僕には、彼女の話がまったく理解できない。首を伸ばし、背伸びをして空を見上げていると、ふらついて転げそうになった。
「きみの名前はなに? どうして一人でここにいるの?」
子供っていう生き物はまったくもって恐ろしい。初対面の女の子に、いきなり個人情報を聞き出せるのだ。いまの僕には到底無理だ。
しかし彼女は僕の不躾な質問を嫌がりもせず、くいっと顔をこちらに向け、柔らかく微笑んで答えた。
「方條実織。青葉小学校2年生。ここにいたのは、家に帰りたくないからだよ」
彼女の“微笑む”という動作と“家に帰りたくない”という台詞はあまりにミスマッチだった。思わず首をひねったほど。でもそれ以上に、彼女が自分と同じ学校で、同じ学年だということに嬉しくなった。
「へえ、僕も青葉小学校で、2年生なんだ」
「本当に! じゃあ、また会えるかもね」
とても弾んだ、嬉しそうな声だった。その時の彼女は、初めに目にした時のように“無心”ではなく、年相応の少女という感じがした。
それからどれほど話したのだろう、気づいたら本当に夜になっていて、本物の星が夜空に瞬いていた。
「もうそろそろ、帰らなくちゃ」
「そうね……、お父さんとお母さんが待ってるものね」
なぜかよく分からないけれど、その言葉を吐いた彼女がとても小さな存在に見えて、胸が疼いた。
「さようなら、敬貴くん」
「うん、またね」
お互いに手を振って別れを告げ公園を出たとき、はっとした。
なぜ彼女は僕の名前を知っていたのだろう。
名札はランドセルにしまってある。帰宅時につけっぱなしでは危ないと、母に言われていたからだ。
「まあいいや」
そんな不思議な出来事も、8歳の自分には大した問題でもなく、謎のままになってしまった。
彼女がこのあと家に帰って、機嫌の悪い母親の相手をして罵りを浴びながら夜を明かしたのか、それともずっと公園にいたのかなんて、知る由もない。
そう、この時の僕はまだちっぽけな子供で、彼女は小さな大人だったから。
空を見上げると星がとても遠くて、僕は精一杯背伸びをして手を伸ばしてみたけれど、何度挑戦してもひんやりとした空気を掴むだけだった。
その日以来、僕は何かと友達に理由をつけて、学校の帰りに公園に立ち寄った。
彼女はたいていブランコに座って本を読んでいた。僕は本に興味はなかったが、彼女に会うため毎日寄り道をした。
「今日は何の本?」
「これ」
彼女に本の表紙を見せられて分かった。
そこには「よだかの星」と書かれていた。宮沢賢治の作品だ。僕も一度読んだことがある。それにしても、名作なんてそれほど面白いものではないのに、なぜ彼女がいつも退屈な本ばかり読んでいられるのだろう。
「よだかは、実にみにくい鳥です」
彼女の声が、僕の耳に心地よい。
「顔はどろどろ、味噌をつけたようにまだらで、くちばしはひらたくて、耳までさけています」
よだかはとても醜いため、みんなから嫌われている。よだかは鷹の仲間ではないのに、“たか”という名前が入っているため、本当の鷹がとても気にかけて、嫌がっていた。
あるとき鷹がよだかに言うのだ。
名前を変えて、みんなに報告に行け。
そうしなければ殺してしまうぞ、と。
よだかは身も心もボロボロになりながら願うのだ。
『お日さん、お日さん。私をあなたの所へ連れてってください。やけて死んでもかまいません』
『東の白いお星さま、私をあなたの所へ連れてってください。やけて死んでもかまいません』
しかし、太陽にも星にも、よだかは相手にされなかった。
そうしてそのまま力尽きて星になるのだ。
今考えるとあまりに理不尽な話だ。これで児童向けの話なんだから不思議だ。
「よだかはかわいそうだよね。何も悪いことをしていないのに、死んじゃうなんて……」
僕は彼女に向かって率直な感想を述べた。
よだかは優しい心の持ち主で、何も咎められるようなことなんてなかったのに。
最後には命を奪われるのだ。
「そう、かな。よだかは望んで星になったんじゃないかな」
そう呟いた時の彼女の儚い声を、僕は今でも忘れられない。
彼女もよだかのように、本当に望んで亡くなってしまったから。ただ、彼女が何を思って自殺したのか、車にぶつかる瞬間に何を願っていたのか。
それだけを、僕は知りたかった。