◆◇
彼女の名前は方條実織という。僕と同じ、高坂高校の3年生。
彼女はどちらかと言えば大人しい人で、クラスの中でもあまり目立つようなタイプではなかった。
ただ、僕が彼女に対して「一つだけ特徴を挙げよ」と言われたら、「大人しい」なんてことは言わない。そんな通り一辺倒な言葉で、彼女を形容したくはなかった。
彼女は世界中の誰よりも美しい心を持っていたと思う。
なんて陳腐な言葉だ、と思われも仕方がない。実際、「心がきれいな人」ならどこにだっているだろうから。
ただ、僕が彼女に対して抱く印象は、単に彼女が善人だからとか、優しいからとか、そういう理由からじゃない。
彼女のすべてが特別だった。口にすること、目で追っているもの、遠く想いを馳せていること。
それは生まれつき備わっていた感性で、特別なものだったんだ。
例えば、帰宅時の通学路。
夕日で真っ赤に染まる空を見て、彼女はこう言った。
「歌が聞こえてくる……。懐かしい、子守歌。幼いころに畳に寝そべって聞いた、哀しい歌」
もともと大きくて綺麗な目を細めて、昔を懐かしみながらもその目は真っ直ぐに山の端に沈む夕日を捉えていた。
そんな時はいつも淋しそうな表情になり、それから切なげな笑みを浮かべるのだ。
「でも、とても綺麗ね」
彼女はこんなふうに、僕にとってはどうでもいいような、とても些細な事柄の最も美しい部分をいつも考えていた。
世界の一番深い端っこを掴んでいたのだ。
僕は、そんな彼女の考えることを一つでも多く理解して、夕日の沈む山の向こう側を見ようと背伸びした。けれど、当たり前だが向こう側なんて到底見えやしない。諦めて、彼女が見つめる方向をじっと見ていた。彼女と同じことをしていれば、いつか自分にも特別な感性が備わるような気がしたのだ。
「ねえ、敬貴くん」
いつだったか、彼女が何か決心したように凛とした声で僕を呼んだ。
何を言われるのだろう、とどきどきしながら彼女の次の言葉を待った。
「私、作家になるわ。そしていつか、“最愛の幸い”を書くの」
「最愛の幸い?」
「ええ。私にとって、特別な物語なの」
夢を語る彼女の目はとても澄んでいて、ふと気を抜けばその瞳の中に引き込まれていきそうだった。
そうだ、彼女はいつだって未来に希望を持って生きていた。
真っ白く、穢れのない花を胸に抱いていた。
それなのに、なぜ。
彼女は自分自身に制裁を加えなければならなかったのだろう。
“またね、敬貴くん”
あの日、笑って僕に別れを告げ、普段と同じように帰宅するはずだった彼女は、自転車で勢いよく坂を下ったあと、自ら赤信号の横断歩道に突っ込んでいったのだ。
案の定、彼女は直進してきた車に衝突した。
自転車のブレーキが壊れていたわけでも、彼女がハンドル操作を誤っていたわけでもない。
だからこれは、不幸な事故なんかじゃないのだ。彼女は自ら望んで事故に巻き込まれた。
警察は、彼女が自殺したのは彼女の家がとても貧しかったせいだと結論づけた。要するに、「家庭の事情が理由」として話が収まったのだ。実際、彼女の家には毎日借金取りが来て、普通の生活をしていけるような状況ではなかった。ストレスが溜まっていたんだろう、と大人の人たちが結論づけるのを、僕は空虚な気持ちで聞くことしかできなかった。悔しくて悲しいはずなのに、彼らの言葉に対抗する術を持ち合わせていない僕は、深くうなだれるだけ。手の指先や足先が、自分の身体ではないかのようにうまく動かなくて、毎日朝起きるのさえ億劫になっていた。
彼女は、どうだったんだろうか。
事故が起きる前。毎日ほとんど寝ていない状態で、それでも学校にはきちんと登校していた。僕の前では絶対に弱音を吐かなかった。
だけど、やっぱり苦しかったのだと、あの日ようやく気づいたんだ——。
彼女の名前は方條実織という。僕と同じ、高坂高校の3年生。
彼女はどちらかと言えば大人しい人で、クラスの中でもあまり目立つようなタイプではなかった。
ただ、僕が彼女に対して「一つだけ特徴を挙げよ」と言われたら、「大人しい」なんてことは言わない。そんな通り一辺倒な言葉で、彼女を形容したくはなかった。
彼女は世界中の誰よりも美しい心を持っていたと思う。
なんて陳腐な言葉だ、と思われも仕方がない。実際、「心がきれいな人」ならどこにだっているだろうから。
ただ、僕が彼女に対して抱く印象は、単に彼女が善人だからとか、優しいからとか、そういう理由からじゃない。
彼女のすべてが特別だった。口にすること、目で追っているもの、遠く想いを馳せていること。
それは生まれつき備わっていた感性で、特別なものだったんだ。
例えば、帰宅時の通学路。
夕日で真っ赤に染まる空を見て、彼女はこう言った。
「歌が聞こえてくる……。懐かしい、子守歌。幼いころに畳に寝そべって聞いた、哀しい歌」
もともと大きくて綺麗な目を細めて、昔を懐かしみながらもその目は真っ直ぐに山の端に沈む夕日を捉えていた。
そんな時はいつも淋しそうな表情になり、それから切なげな笑みを浮かべるのだ。
「でも、とても綺麗ね」
彼女はこんなふうに、僕にとってはどうでもいいような、とても些細な事柄の最も美しい部分をいつも考えていた。
世界の一番深い端っこを掴んでいたのだ。
僕は、そんな彼女の考えることを一つでも多く理解して、夕日の沈む山の向こう側を見ようと背伸びした。けれど、当たり前だが向こう側なんて到底見えやしない。諦めて、彼女が見つめる方向をじっと見ていた。彼女と同じことをしていれば、いつか自分にも特別な感性が備わるような気がしたのだ。
「ねえ、敬貴くん」
いつだったか、彼女が何か決心したように凛とした声で僕を呼んだ。
何を言われるのだろう、とどきどきしながら彼女の次の言葉を待った。
「私、作家になるわ。そしていつか、“最愛の幸い”を書くの」
「最愛の幸い?」
「ええ。私にとって、特別な物語なの」
夢を語る彼女の目はとても澄んでいて、ふと気を抜けばその瞳の中に引き込まれていきそうだった。
そうだ、彼女はいつだって未来に希望を持って生きていた。
真っ白く、穢れのない花を胸に抱いていた。
それなのに、なぜ。
彼女は自分自身に制裁を加えなければならなかったのだろう。
“またね、敬貴くん”
あの日、笑って僕に別れを告げ、普段と同じように帰宅するはずだった彼女は、自転車で勢いよく坂を下ったあと、自ら赤信号の横断歩道に突っ込んでいったのだ。
案の定、彼女は直進してきた車に衝突した。
自転車のブレーキが壊れていたわけでも、彼女がハンドル操作を誤っていたわけでもない。
だからこれは、不幸な事故なんかじゃないのだ。彼女は自ら望んで事故に巻き込まれた。
警察は、彼女が自殺したのは彼女の家がとても貧しかったせいだと結論づけた。要するに、「家庭の事情が理由」として話が収まったのだ。実際、彼女の家には毎日借金取りが来て、普通の生活をしていけるような状況ではなかった。ストレスが溜まっていたんだろう、と大人の人たちが結論づけるのを、僕は空虚な気持ちで聞くことしかできなかった。悔しくて悲しいはずなのに、彼らの言葉に対抗する術を持ち合わせていない僕は、深くうなだれるだけ。手の指先や足先が、自分の身体ではないかのようにうまく動かなくて、毎日朝起きるのさえ億劫になっていた。
彼女は、どうだったんだろうか。
事故が起きる前。毎日ほとんど寝ていない状態で、それでも学校にはきちんと登校していた。僕の前では絶対に弱音を吐かなかった。
だけど、やっぱり苦しかったのだと、あの日ようやく気づいたんだ——。