舟の起動を遠隔操作で行ったあと、僕はもう一つの大型コンピュータに向かった。外では地面が割れ、地下から巨大な宇宙船が火を噴きながら飛び立ってゆく様子をモニターで確認することができる。
これでこの星に残ったのは、本当に僕一人だけ。
僕の計画は、彼女たちを乗せた方舟を、チャイルドへと飛ばすことだけではなかった。これは、マユにも、ミナトにも、打ち明けたことはない。僕が頑なに一人ここに残ったのは、この悲願を達成するためだったのだから。
この地球上の穢れを、全て洗い流す。
この星を、無に還す。
そんなことで人間たちの行った罪が、消えるわけではないけれど。僕はできる限りのことをしよう。神話で神がそうしたように。
最後まで隠していたファイルを開き、プログラムの実行を、命ずる。
ごう、と、地下にまで響く、地響き。
そっと目を閉じると、何億年もの星の記憶に想いを馳せた。
それからおよそ半年の歳月が流れ、世界暦は百三十八年を刻むこととなる。
僕はあの日、彼女が眠った日以来訪れていなかった、地上世界へと向かう。
誰もいない星はとても静かで、この足音は地下世界中に響いているのかと錯覚するほどだ。
地上被験地という、仮初の楽園があった場所。彼女と初めて出会った場所へと繋がる移動通路は既に動力源を失い、停止していた。
今は非常電源で動いているコンピューターたちも、やがては止まり、地下の世界は真っ暗な闇へと還るのだろう。
彼女と過ごした地下世界での数ヶ月を想うと、何故か少しだけ、胸が苦しくなった。
おかしいな。僕の感情は、特に負の感情のほとんどは、あのとき失ったはずなのに。
まともな感情なんてあったら、こんな状況に耐えられるはずがないのに。
視界が開けると、そこはどこまでも広がる荒れた大地だった。地平線の向こうまで、何もない、ただ土だけの世界が広がっている。
被験地を覆っていたドーム状の透明なシールドも、もちろん全てがなくなっていた。
「これで、やっと、僕の目的は遂げられたのか……」
第九居住区の地表付近には、海がある。そこから大量の水を汲むと、勢いよく地上に放つ。巨大な機械によって、津波のように、地上を水で洗い流すのだ。そしてそれは、何ヶ月も止まることがない。
長く続いた洪水によって、人工的に作られた地上被験地は勿論、人の手の施しようがないほど腐敗した大地も全て、洗い流された。
空を見上げると、青ではなく、いかにも人体に良くない紫色をしている。
造り物の僕の身体だから、今は何とかここに居られるのだろうけれど。それもきっと、あまり長くはない。
目を細めて空を見つめていると、この星からは見えるはずのない、明るく煌めく星を見つけた。
「――あの方向は、チャイルド」
急に酷い目眩に襲われて、思わず地面に膝をつく。思ったより早かったな。
「まさかね。運良く塵に切れ目ができて、星が一つ、覗いただけだろう」
そうは言いつつも、顔を上げ、その星を見つめる。ずっとずっと、見つめ続ける。
誰も、何もいなくなったこの地球で、たった一人。それでも僕は幸せだったよ、マユ。
遂に苦しさに負けて首を垂れると、赤茶けた土に、雫が一つ、染み込んだ。
「え……?」
それが自身の涙であることに気が付くのに、少し時間を要する。
僕って、泣けたんだ。あの主治医は、一体どうしてそんなシステムを残したんだろう。
もう一度、最後の気力を振り絞って顔を上げると、この身体になって初めて味わう両頬に伝う涙の感触。あのとき失ったはずの感情が、どうして。
身体が、機能を停止しようとしている。でも、それを口にせずにはいられなかった。
この声は誰にも届かない。わかっている。だからそれが悲しくて、そして、とても嬉しいんだ。
「マユ。僕は、君が好きだったよ」
崩れ落ちる身体。少し無茶をしたせいか、もう指一本動かない。
薄く開けた目の前に、小さな小さな緑が映る。まだまだ若い、双葉。こんな世界でも生きようとする、新しい命。
大丈夫、僕は一人じゃない。最期に一粒涙を零し、僕の身体は活動を停止した。
空に、大きな虹が描かれていた。
これでこの星に残ったのは、本当に僕一人だけ。
僕の計画は、彼女たちを乗せた方舟を、チャイルドへと飛ばすことだけではなかった。これは、マユにも、ミナトにも、打ち明けたことはない。僕が頑なに一人ここに残ったのは、この悲願を達成するためだったのだから。
この地球上の穢れを、全て洗い流す。
この星を、無に還す。
そんなことで人間たちの行った罪が、消えるわけではないけれど。僕はできる限りのことをしよう。神話で神がそうしたように。
最後まで隠していたファイルを開き、プログラムの実行を、命ずる。
ごう、と、地下にまで響く、地響き。
そっと目を閉じると、何億年もの星の記憶に想いを馳せた。
それからおよそ半年の歳月が流れ、世界暦は百三十八年を刻むこととなる。
僕はあの日、彼女が眠った日以来訪れていなかった、地上世界へと向かう。
誰もいない星はとても静かで、この足音は地下世界中に響いているのかと錯覚するほどだ。
地上被験地という、仮初の楽園があった場所。彼女と初めて出会った場所へと繋がる移動通路は既に動力源を失い、停止していた。
今は非常電源で動いているコンピューターたちも、やがては止まり、地下の世界は真っ暗な闇へと還るのだろう。
彼女と過ごした地下世界での数ヶ月を想うと、何故か少しだけ、胸が苦しくなった。
おかしいな。僕の感情は、特に負の感情のほとんどは、あのとき失ったはずなのに。
まともな感情なんてあったら、こんな状況に耐えられるはずがないのに。
視界が開けると、そこはどこまでも広がる荒れた大地だった。地平線の向こうまで、何もない、ただ土だけの世界が広がっている。
被験地を覆っていたドーム状の透明なシールドも、もちろん全てがなくなっていた。
「これで、やっと、僕の目的は遂げられたのか……」
第九居住区の地表付近には、海がある。そこから大量の水を汲むと、勢いよく地上に放つ。巨大な機械によって、津波のように、地上を水で洗い流すのだ。そしてそれは、何ヶ月も止まることがない。
長く続いた洪水によって、人工的に作られた地上被験地は勿論、人の手の施しようがないほど腐敗した大地も全て、洗い流された。
空を見上げると、青ではなく、いかにも人体に良くない紫色をしている。
造り物の僕の身体だから、今は何とかここに居られるのだろうけれど。それもきっと、あまり長くはない。
目を細めて空を見つめていると、この星からは見えるはずのない、明るく煌めく星を見つけた。
「――あの方向は、チャイルド」
急に酷い目眩に襲われて、思わず地面に膝をつく。思ったより早かったな。
「まさかね。運良く塵に切れ目ができて、星が一つ、覗いただけだろう」
そうは言いつつも、顔を上げ、その星を見つめる。ずっとずっと、見つめ続ける。
誰も、何もいなくなったこの地球で、たった一人。それでも僕は幸せだったよ、マユ。
遂に苦しさに負けて首を垂れると、赤茶けた土に、雫が一つ、染み込んだ。
「え……?」
それが自身の涙であることに気が付くのに、少し時間を要する。
僕って、泣けたんだ。あの主治医は、一体どうしてそんなシステムを残したんだろう。
もう一度、最後の気力を振り絞って顔を上げると、この身体になって初めて味わう両頬に伝う涙の感触。あのとき失ったはずの感情が、どうして。
身体が、機能を停止しようとしている。でも、それを口にせずにはいられなかった。
この声は誰にも届かない。わかっている。だからそれが悲しくて、そして、とても嬉しいんだ。
「マユ。僕は、君が好きだったよ」
崩れ落ちる身体。少し無茶をしたせいか、もう指一本動かない。
薄く開けた目の前に、小さな小さな緑が映る。まだまだ若い、双葉。こんな世界でも生きようとする、新しい命。
大丈夫、僕は一人じゃない。最期に一粒涙を零し、僕の身体は活動を停止した。
空に、大きな虹が描かれていた。