一週間、期日を延長したにも関わらず、マユは結局僕が出した課題を終えることはできなかった。勿論それも僕の想定通り。船は明日、この地を離れ、長い旅路へと向かう。もう、タイムリミットだ。
「そんなにしょんぼりすることない。目の下にクマまで作って。君は本当によく頑張ったと思うよ? 昼間はずっと僕の相手をしてくれていたって、わかっているしね」
 時刻は午後六時。夏が終わると、この時刻になればあたりは既に薄暗い。
 初めて僕たちが出会った地上被験地で、彼女は悔しさから唇を噛み締めていた。
「読めば読むほど、頭の中がぐちゃぐちゃで、胸のあたりが苦しくて。こんなこと、初めてで……」
「あの二人の遺伝子を継いでいたら、何をするにもそんなに苦労はしないだろうからね。君は何もかもを生まれながらにして持っていて、そんな恵まれた境遇で十八年間生きてきた」
 家庭に恵まれ、知能に恵まれ。こんな世界では、そんなに面白くもなかったかもしれないけれど、その中でできる限りのやりたいことをして。彼女は幸せに生きてきた。そんなマユにとって、ここ数ヶ月の出来事は余りにも変化に富んでおり、心を痛めることも多かったはずだ。
 そこにとどめを刺すかのように、僕はとても解釈の難しい戯曲を読み解くよう、彼女に課題を出した。
「僕がどうしてその話の解釈をまとめることを課題にしたのか、その理由がわかる?」
 マユは黙って首を振る。僕はそんな彼女の可愛らしい耳に顔を近づけると、そっと囁いた。
「その作品は、西暦時代からとても難しいと言われていてね。だって、普通じゃないだろう? だから、君にはどうやっても無理だと思って、それを課題にしたんだ」
「何、それ!」
 思わず声を上げるマユ。僕が彼女に渡した本は、戯曲として描かれたサロメという話だった。一見主人公の愛は歪んでいて、狂気や異常さ感じてしまうかもしれない。しかし、見方を変えると、無垢な少女のように見える。そんな、複雑で難解な愛の形に、少しでも触れてほしかった。そして、考え、悩み、答えの出ぬままに時間が過ぎ去ってほしかった。
「だって、早く読み終わってしまって、君が早く眠りにつくことになってしまったら、僕は寂しい」
 そう。僕は君と、少しでも長く一緒に居たかった。
「それじゃあ、あなたの目論見は大成功というわけね」
 少し拗ねたように頬を膨らませる姿も愛らしくて、本当に見ていて飽きない。
 僕の悲願はもうすぐ達成される。でも、僕はこのとき目覚めて初めて、もう少し計画を先延ばしにできたらいいのに、と思った。
「そうだね。君と過ごす日々は、とても楽しかった。ありがとう、マユ」
 でも、何十年もかけて、綿密に、緻密に練り上げた計画だ。コンピューターにも複雑なプログラムを書き込んであるが故に、そう簡単に日付をずらすことはできない。
 返事の代わりに、マユは細い左腕を僕に差し出す。
「私も楽しかった。あなたとの日々は、私が必ず覚えておくから、安心して」
 気丈に振る舞っているつもりかもしれないけれど、その声はもう震えている。もっと一緒に居たいと思っているのは、僕だけなのだろうか。それは、悲しいな、と鈍くなった心を痛めていると。
「そしてどうか、あなたがこの星で、安らかな最期を迎えることができますように……、って、こんなのあんまりだよ! こんなに酷い話、なんで、ジルが、こんな役目をっ」
 穏やかな声で始まった言葉は、最後には悲痛な叫びとなっていた。
「僕が生きるためには、この選択肢しかなかったんだ。この身体になるときに、この運命は決まってしまったんだよ」
 決壊したダムのように、双眸から涙を流す。僕のことを想う涙は、それはそれは美しかった。
「もっと一緒に居たかった! もっと早く出会いたかった! 新しい世界で、まだまだ話し足りないことを、たくさん話したかったのに!」
 こんなにも素直な剥き出しの感情をぶつけられて、僕は嬉しくて堪らない。
「もしかすると、君のその感情は、恋かもしれないね」
「この気持ちが、恋?」
 ぐちゃぐちゃの顔のまま、驚いたような声をあげる。彼女は僕との別れをただ惜しんでくれているだけかもしれない。優しくて、感受性の豊かな彼女なら十分に有り得る。
 でも僕は、そうだったらいいのに、と、願いを込めて言ってみた。
「ママが、」
 彼女の母、ハルナが?
「ママが、ジルには深入りしない方が、私にとっては幸せかもしれないと言っていたの。それはつまり、恋に落ちて、好きになってしまっても、すぐに永遠の別れが来てしまうことを知っていたから……?」
 背筋がぞくりと粟立つ。
 女の子とその母親というものは、こんなことまでわかってしまうのか。それともやっぱりハルナが特別なのか。予言めいたことをあらかじめマユに伝えていたなんて、さすがの僕も全く予想ができなかった。
「やっぱりママは凄いわ。私もそんな、ママみたいになりたい。だから、いつまでも泣いてなんていられない、よね」
 顔をごしごしと拭いて、無理やりに笑顔を作ってみせる。笑顔なのに、大粒の涙が次々に溢れては落ちてゆく。
「あなたのことも、あなたに教えてもらったこの感情も、私は覚えていたい。そうしたら、ジルは寂しくなんてないよ」
 煌めくその雫は、本物のダイヤモンドよりも、ずっとずっと、綺麗だ。
「そうだね。……じゃあ、君の言葉に甘えて、僕の記憶を残したまま眠りにつける薬剤を使おうか」
「そんなもの、本当にあるの?」
 僕はポケットの中から、もう一つ薬剤の入ったアンプルを取り出す。
「本当はミナトに、僕のことを覚えていてくれないかと打診するつもりだったんだけどね。言い出せなかったんだ」
 それを聞いた彼女の目が細くなる。本当に、喜んでくれているのか。僕の存在を覚えていることを。
 胸の辺りが細い針で刺されたように痛む。失ったはずの感情なのに、どうしてこんなに苦しいのだろう。
「私は絶対に忘れない。だから、安心して」
 落ち着きを取り戻したいマユが、精一杯微笑みながら、どこまでも優しい言葉をくれる。
 そして僕は慣れた仕草で注射器のアンプルを取り替えると、差し出された左腕を取った。
「マユ、ありがとう」
 細い針をそっと刺しながら、僕は別れの言葉を口にする。
「そして、……ごめんね」
 できるだけ痛みを感じないように、ゆっくりと薬剤を静脈に流す。きっともう、意識は遠のき始めているはず。だから、
「君にだけ辛い記憶を背負わせることは、僕にはやっぱりできない」
「ーーっ」
 最後まで、伝えないでおくつもりだったそれを、思わずそれを口にしてしまう。彼女は朦朧としつつも無理やり目をこじ開けて、僕を見つめようとする。
 瞼を持ち上げられたとしても、目は霞んでしまっていて、せいぜい目に入ったのは、暗闇に浮かぶ僕の金色の髪ぐらいだろう。
 そして彼女は、僕の腕の中で静かな眠りについた。
「どれほど望まれても、僕は誰の記憶にも残るべきではない存在なんだ。だから、これでいい」
 これで、いいんだ。
 抱き上げた軽くて細い身体を、ベンチの上にそっと下ろす。長くて真っ直ぐな黒髪、くりくりとよく動く目、薄紅色の小さな唇。
 ハルナに似ているとミナトはよく口にしていたけれど、どちらにもよく似ていて、そしてどちらとも違う一人の女性だ。彼女は新しい世界で、どんな生を送るのだろう。
 からかい半分に口づけを迫る真似をしてみても、愛や恋はまだわからないと言って、表情はおろか鼓動さえ全く変わらなかった。
 そんな彼女が、最後に抱いた感情。それが何だったのかは、今となっては誰もわからない。
 でもきっと、いずれは誰かと恋に落ちて、結ばれて、子孫を残してゆくのだろう。
「それが人間として一番正しい道、だけど。……なんだか悔しいのはどうしてだろうね」
 そっと手を伸ばし、冷たくなった額にかかる髪を払う。
「君は何も知らずに幸せになる。だから、これぐらいは許してもらえるよね? マユ」
 ひんやりとした唇に、そっと口づけを落とした。


 その穏やかな寝顔は、飽きることなくいつまでも見つめていられるけれど。タイムリミットは容赦なく訪れる。僕は重い腰を上げて立ち上がると、彼女の身体を抱き上げ、そのまま地下へと向かった。
 宇宙船には、彼女のための最後の箱がある。慣れた手つきで蓋を閉め、それを両親の隣に並べる。

 乗客はこれで全員揃った。
 あとは明朝の出発を待つだけだ。