結局私は、ジルによって定められた期日までに与えられた課題を終えることはできなかった。何度も繰り返し読むことはできたが、主人公の気持ちがわからない。これが、愛? 私には、そのサロメという女は、狂っているとしか思えないのだ。
 延長戦と行こうか。と簡単に言われて、本来私が眠りにつく予定だった日、私はノアの研究員たちを見送る側に立っている。
「あなたとあまり関わることが出来なかったことが、この星での唯一の心残りです。どうかあちらでは、共に言語や文学の美しさを皆に広めて参りましょう」
 キヨシが私の手を取って、しばらくの別れを惜しんでくれる。私も、彼とはもっと言葉について語り合ってみたかった。
「ええ、約束しましょう。そして私にも、美しい文字を教えてくださいね」
 先に箱に横になっていたハオとシェンが、キヨシを呼んでいる。ジルは、こんな注射、誰だって打てるよ、と言っていた。実際、医学の心得のない父がマニュアルに目を通しただけで母にその処置を施したのだから、その通りなのだと思うが。
「ジルは向こうの連中に捕まっているからな。簡単な処置であろうと、やはり医師が行うに越したことはない」
「気持ちは痛いほどわかるわ」
 自分の身体に薬剤を注入されるとなると、それを行うのは医師か、厚く信頼を寄せている相手でないと、受け入れるのは難しい。
「ハオ、そしてシェン。向こうでは美味しい食事を期待しているからね。もう栄養ブロックは見たくもないわ」
「ふふ。それでもマユさんは、あと一週間ほどそれを食べなければならないんでしょう?」
「……多分、そうなると思う」
 課題の期日は昨日。しかしジルは私に、船が旅立つ前日までの猶予を与えた。今日残りの者を見送れば、残りの一週間、この地球で活動できる者は私のジルの二人だけになる。
「我々も、君と早く出会いたかった。向こうでは君の知を頼りにしているぞ。しばしの別れだが、体感時間としては一瞬のことだ。何も憂うことはない」
 そしてこの星には何も思い残すことはないと潔く告げて、ハオはキヨシによって薬剤を投与される。シェンもそれに続いて、静かに眠りについた。
「もうこちらは終わったのか。助かるよ」
 丁度、ハオたちの箱に蓋を閉め終わったとき、ジルがやってくる。
「残りはキヨシだけだね。君の筆記術は本当に芸術、美術品だったよ。どうか、その技術が皆に広まるよう、願っている」
「願うだけでなく、共に見届けましょう。悲願はもうすぐそこまできております」
「そうだね。本当に、楽しみだ」
 ジル直属のノアの研究員で、彼が地球に残る事を知っている者は極少ない。ジルが親友と呼ぶ父にだって、最後まで伝えなかったことだ。今ここにいるメンバーも、もちろん何も知らない。


 そうして、ノアの研究員も含めた全人類が、巨大な宇宙船の中で、長い眠りについた。
 私の目の前にいる金髪の青年、ジルコニアの記憶を失った状態で。

 
 人類の全てが眠りについた日から、私は毎日ジルの部屋へと通っていた。別れを惜しむかのように、二人の時間を出来るだけ多く作ろうとしていたのだ。
 かと言って、何か特別なことをするわけではない。普段通りソファーに身体を沈めて本を読む。時々会話を交わし、お茶を飲んで、また読書に戻る。そんな何気ない日常。
「僕はね、ここに残ることは、実はあまり怖くはないんだよ」
 ジルの入れる紅茶は、苦味が強かったり、或いは極端に薄かったりして、お世辞にも美味しいと言えるものではなかった。食物を必要としないジルの身体には、味覚が備わっていないのだという。そんな彼が、私のためだけに入れてくれる紅茶を、私は毎回大切に味わった。
「ここに残ることは、ということは、他に何か怖いことがあるのね」
 今日の紅茶は、いつもと比べても特別に濃くて、苦い。シェンの入れたものとは大違いだな、と、つい先日のことに思いを馳せながら、素知らぬふりしてそれを啜る。
「僕は、僕という存在が忘れ去られてしまうことが、ほんの少しだけ、怖い」
 二人きりになったからか、初めて弱音を吐いた彼を見つめる。しばらく見ていると、長い睫毛の間から覗くブルーの瞳が、私の顔を捉えたのがわかった。
 手を伸ばして、ひんやりとした頬に触れる。
「じゃあ私が覚えているわ」
 こういうシーンは、小説にたびたび出てきた気がする。まるで別れを惜しむ、恋人同士のような、そんなやり取り。
「あなたと共に過ごした日々は、とても短いものだったけれど。私にとってはかけがえのない大切な時間だったから」
 ジルは返事をすることなく、じっと私の顔を見る。私が彼のことを覚えておく人間として相応しいのか、値踏みをされている気分だった。
「それとも、やっぱり私では、役不足なの?」
 首を傾げて問いかけてみると、彼は頬に触れる私の手に、己の手を重ねた。瞼が閉ざされて、美しいサファイアは姿を消してしまう。
「まさか。こんなに光栄なことはない」
 船が地球を飛び立つ日まで、残り僅か一週間。私がジルに出された課題は、到底終わる気がしなかった。