物資を輸送するための地下航路に、いつの間にか到着していた巨大な宇宙船。父は、母が眠る箱の隣で、静かな眠りについた。
 父にとって第九居住区は、生まれ育ち、母と出会い、そして娘の私が生まれた地。ジルは、何処か思い入れのある場所で眠りについたらどうかと提案したが、父は頑なに断った。少しでも母の近くにいたいから、と言っていたが、きっとそれは半分が建前だ。
 外で眠ると、誰かが地下の船まで運ぶ必要がある。そんなこと、移動通路や自動アームが発達した今では、ほんの些細なことなのに。手間を少しでも減らしたかったのだろう。
 どんなときでも自分は後回しで、友人や家族のことを一番に考えられる人。そんな父に、きっと母は恋をした。
 父が眠ってからは、第九居住区の一般人やブレインたちも順に眠りにつきはじめ、私たちはその処置に追われていた。医療センターで一足先にコールドスリープについていた人たちの箱を運搬するなどの雑用もこなしていると、あっという間に、船が第九居住区に到着してから二週間が過ぎ去った。
 その日の日中の仕事を終えた後、トーヤがジルと私を引き留める。その時には既に、この地の人間のほとんどが船に収容されていた。残っているのは僅かなブレインと私たちだけ。
「課題が完了した。君たち二人に聴いてほしいんだけど、この後の都合はいかがかな?」
 地下の居住区よりさらに深いところにある地下航路。そこから居住区へと昇るエレベーターの中、トーヤは私たちに尋ねる。
「もちろん、構わないよ。場所はどこにしようか」
「やはり、夜を感じられるところが相応しいだろうか。手間をかけさせてしまうが、地上被験地まで来てもらってもいいかな?」
 トーヤが自ら進んで地上へ行こうと言うのは初めてだった。バイオリンの入った黒いケースを手に、緊張した面持ちをしている。
 二週間前に研究室で練習しているのを耳にしたときは、なかなか苦戦している様子だった。それからはどんどん昼間の仕事が増え、練習に充てられる時間は夜だけになってしまったはずである。
 トーヤは、努力している姿や苦労している姿を私には一切見せたことがない。こんなにも早く、彼の課題が終わるなんて、全く想像もできなかったことだ。
「ああ、夜はだいぶ涼しくなってきたね。秋も近い」
 地上の被験地へと続くシェルターが開くと、爽やかな風が吹き込んでくる。この気温も、管理されてこの温度になっているだけなのだが、その管理が季節の移り変わりに忠実であるため、実際に夏が終わるような感覚を覚える。
「もう八月も終わりだものね」
「ああ。でも、残念だが、星は……見えないかな」
 透明なシールドでドーム状に覆われた被験地の空は、黒と紫と灰色をぐちゃぐちゃに混ぜたような色をしていた。
 エデン・ロストが起きていなければ。オゾン層が破壊され、成層圏に有害な塵芥が舞い上がっていなければ。今頃はまだ、夏の大三角形が天高くに浮かんでいたことだろう。
 私が空を見上げてそんなことをぼんやり考えている間に、トーヤは準備を進めている。白いシャツに紺色のスラックスは普段通りだが、今日は首元にギンガムチェックのクロスタイを付け、濃紺のジャケットを羽織っていた。最後にチューニングの確認をする。
 木々の間の開けた空間に、観客が二人。地面にそのまま腰を下ろして、夜空を背景にそのバイオリニストを見つめる。
「この星の、夜に想いを込めて」
 歪な素材の入り混じったバイオリンを左肩に乗せて構えると、煌めくグラスファイバーの弓が、銅線の弦を滑り始めた。
 呼吸をすることも勿体ないような感覚に襲われる。
 この、星さえ見えない腐敗した夜空の塵が、全て澄み切ってしまうかのような。清廉でいて、そして甘美さを孕んだ音色に心が全て持っていかれる。
 美しい響きに導かれて、白鳥座のデネブが顔を出すんじゃないかと、私は夜空を見上げていた。
「ーーありがとう」
 演奏を終えたトーヤが一礼をする。ジルが立ち上がり、パチパチと手を叩いていた。私も慌てて立つと、必死で拍手を送る。
「よく、独学でここまで美しい音色を奏でられたね。聴かせてくれて、ありがとう」
「満足いただけたみたいでよかったよ」
 瞬きをすると、それまで目に溜まっていた雫がぼろぼろと零れ落ち、地面に吸い込まれていった。
 トーヤはバイオリンを丁寧に片付けると、私の元に歩み寄り、頬を伝う涙を指で拭う。そして、私にだけ聞こえるように、そっと耳元で告げた。
「マユ。俺は先に眠ることになると思う」
「えっ?」
 しっ、と、人差し指を唇に当てる仕草。そして、私の目元を拭くふりをしながら耳打ちを続ける。
「俺はジルが俺たちについているであろう嘘の真偽を確かめるよ。しかしそれをすると、俺は彼によって眠らされてしまうだろう」
 私たちについているかもしれない、嘘? 私たちはジルに、ノアの計画をまだ隠されている上に、嘘までつかれているの?
「そんな顔をさせるつもりはなかったんだ。マユは何も心配しなくていい。俺はマユを忘れたりはしないからね」
 ついさっきまで儚くも美しい旋律を奏でていた手のひらが、私の頭を撫でた。また泣いてしまいそうなぐらい、その手は温かく、優しい。
 私が落ち着いたのを確かめてから、トーヤはジルの方へ振り返ると、珍しく声を張る。
 「さて、ジルコニア。俺は君からの課題を終えたよ。引換に、君がまだ俺に伏せているノアの計画を教えてもらおうか」
 挑戦的な、いつもの高慢な口調だ。ジルがいつものように、袖で口元を隠すのを見て、トーヤは更に詰めた。
「君は本当に真実を教えるつもりはあるのかな? 俺はともかく、マユにその残酷な真実を告げることは、幾ら感情が希薄になっているとはいえ、良心が痛むのでは?」
「どうしてか、トーヤにはこういう類の嘘は見抜かれてしまうなぁ」
 あくまで想定の範囲内か。ジルはいつもの余裕を崩すことはない。
「本音を言うと、マユには何も知られずに、希望に満ちたまま幸福な眠りについてほしいと思っているよ」
 何、それ。
 結局、私は何も教えてもらえないということか。それならば、初めから何も知らない方がよかった。ジルやノアと関わらず、ただ一人のカレッジの生徒として最後まで過ごした方がよかったとすら思う。
 そこまで考えていると、トーヤが私の肩に手を置く。そして私から離れ、ジルへと歩み寄りながら、静かな声で言った。
「本当に君は、道化師だね。あんなに、いとも簡単に流れるように嘘をつくのだからね。……第九居住区に最後まで残り、船の出立のスイッチを押すのは君なんだろう? ーージルコニア」
「どうしてそう思った?」
「君のような永遠の命を持つ者は、人類の新たなる世界に不必要な分子だから、かな」
 父とジルが二人きりで会話をしていた、その光景が頭に浮かぶ。
「第九居住区に、地球に最後まで残り、コールドスリープの処置を施す。そして宇宙船を出立させる。眠る前に人々に前処置と言って投与していた薬剤は、自分に関わる記憶を消すためのもの」
 トーヤは淡々と言うけれど、それはすなわち。
 この壊れた地球に、たった一人で残るということ。老いることも、死ぬこともなく、永遠に。
「トーヤが僕に従順だったのは、君も結局は、愛する人を守りたかったからなんだよね。ノアの計画を裏切ることはないけれど、僕自身に忠誠を誓っていたわけではないと、初めから気づいていたよ」
 青い瞳がトーヤを射抜く。綺麗に整った顔だからこそ、その表情の冷たさがより強調されて、背筋が冷たくなる。
 今度はジルの方から、ゆっくりとトーヤに歩み寄る。トーヤは俯いて口元が私に見えるように傾け、声は出さずに『おやすみ』と言ったように見えた。
「どこまで知っているのか。あるいは憶測で話しているのかはわからないけれど。これ以上僕の計画を彼女に知らせるのはやめてもらおうか」
 二人がすれ違ったのも一瞬、トーヤの身体が膝から崩れて地に落ちる。こちらに歩み寄るジルはその顔に笑みを浮かべていたが、それが今は、酷く恐ろしく、そしてとても、痛々しい。
「トーヤ!?」
 駆け寄ろうと動き出した身体は、ジルに抱きしめられて止められた。
「眠っただけだよ。悔しいけど、彼はチャイルドに着いてから、とても重要な存在になる。無碍に扱うことはできない、本当に悔しいけどね」
 私を抱く右手に注射針が見える。やはり、トーヤの予想した通りになったのか。全てはこうなることを全てを見越しての言動だった。
「……君は、僕がここに一人残ると知ったら、悲しんでくれるの?」
「当たり前でしょう? なんで、どうしてそんなこと」
「僕の本来の生は、もうとっくに終わっているんだよ。僕はもう、長過ぎるほど生きた。悲願もようやく達成できそうなところまで来ている。もう十分なんだよ、僕は」
 身体の拘束が緩くなり、ジルの顔を見上げると、やっぱり彼は薄く笑っていた。たくさんの言葉が頭の中に浮かぶものの、やっぱり違うとかき消して。何を口にすればいいのかわからなくなった私は、もう一度その身体に抱きつく。
「……そんなの嫌」
 寂しくて、悲しくて、苦しくて。私はただただ、嫌だと駄々を捏ねる。鼓動のない胸に顔を押し当てて、現実を噛み締めていると、優しい手付きで髪を梳かれる。
「悲しむよりも、少しでも多くの思い出を作らない?」
 ゆっくりと頭を撫でられていると、次第に思考が落ち着いてゆく。どうしてこんなに悲しいのだろう。頭で考えるよりも、感情が先走る、そんな感覚は初めてのことだった。
「ごめん。私、どうしちゃったんだろう」
 自ら抱きついていたことを思い出し、慌てて離れると、トーヤの身体に駆け寄った。少しだけ下がった体温と、遅くなった鼓動は、コールドスリープにつく前の状態だ。私より頭一つ大きな身体の下に腕を滑り込ませて、肩に担ぐようにして持ち上げる。
「トーヤの中から、あなたの記憶は?」
「……君が彼を担ぐのはいくら他の子より鍛えているからといっても、無理があるだろう」
 ジルは私の問いに答えることなくトーヤの身体を奪うと、まるで空箱でも持つかのように、軽々と横抱きにして持ち上げる。
「僕の身体が普通でないこと、君には隠す必要がないからね。この身体は、筋力もかなり強化されている。本当に人ならざる存在なんだよ、僕は」
 だから僕は、君たちと一緒に行くわけにはいかない。静かにそう言うジルの声には、決して揺らぐことのない信念を感じた。
「アベルの愛し子たちなんて、比較にもならない。トーヤの言う通り、一番の不要分子は僕という存在そのものだ」