ジルコニア。それは二酸化ジルコニウムの別称で、人工ダイヤモンドのことを指す。文脈からして、母が口にしたジルコニアというのは、ジルのことなのだろう。
「変なタイミングでママからの通話が入ったけど、結果としてよかったのかな」
「ゆっくり面会をする、という点については阻害されてしまったが。母親は至極満足している様子だったからね」
 帰路もまた人影はなく、静かな機械音を立てて通路は私たちを研究所の建ち並ぶエリアへと運んでゆく。
「トーヤは知っているの? 知っていたの?」
「ーー主語がないと、わからないな」
「私も何から聞いていいのかわかんないんだから仕方ないじゃない!」
 そう小さく叫んで、また、私たちは黙り込む。
 どうして父が、第八居住区の筆頭になったのだろう。この星の政治はそれぞれの居住区を代表するブレインで取り仕切られていて、各地域の筆頭ブレイン九人が、世界で最も大きな権力を持つ。
「パパが政治に興味があるなんて、聞いたことがないわ」
「そうだね。ドクター・ミナトの意思ではない」
 やはり知っているのか。トーヤはどこまで知っているのか、私は抱え込んだ疑問を一つ一つ投げ掛ける。
「トーヤはママに、何に気をつけてほしかったの? ああいうときは、普通お身体に気をつけて、というはずなのに。あの言い方には何か別の意味を感じたから」
「トップに立つという事は、敵を多く作るということだよ」
 敵とは誰だ。この世界はブレインはブレイン同士、協力しあって人類の存続を日々研究しているのではないのか。
「トーヤは、大丈夫なのよね」
「信用してもらえて嬉しい限りだよ」
「ジルコニアも大丈夫だけど、深入りしない方が私は幸せ?」
「残念ながらそれに関してはわからない」
 トーヤなら、全部を知っていると思ったのに。
ここであっさりと匙を投げられてしまった。
「ジルコニアっていうのは、ジルのこと? それとも物質としての人工ダイヤモンド?」
「ああ、それは、我らが代表のことで間違いないよ。彼は百年ほど前からジルコニアと名乗っている。ジルと皆には呼ばせてるけれどね」
 当然のようにトーヤは言うが、百年前からそう名乗っているということは、ジルの年齢は百を超えていると言うことだ。
「私がジルのことを知らなさすぎるだけ?」
「君が聞けば、簡単に教えてくれるんじゃないかな? 君の両親だって知っていることだから、秘密にしても無駄なことだ」
 何日も、同じ部屋で一緒に過ごしていたのに。私たちは西暦時代の文学の話しかしてこなかった。分かり合える人がいることが嬉しくて、……やはり私は心底浮かれていたのだと思い知らされる。
「百年より前は、別の名前だったってこと?」
「彼がコールドスリープから目覚めたのがその頃だから、以前とは違う名を名乗ることにしたんじゃないかな? 悪いがこれ以上詳しくは俺も知らない」
 百年以上生きている上に、コールドスリープの経験者だったなんて。一体ジルはいつの時代からこの世界にいるのだろう。途方もない歳月を想像して、私は額に手を当てた。
「それで、最後はアサヒについてか。人工子宮から生まれたアベルの愛し子たちの一人であり、君の同級生であり、……俺たちの幼馴染」
 昔々、西暦の時代では、人類が人類を作り出すことは、倫理的な観点から禁忌とされていた。
 優れた知能を持つ者の遺伝子から優れた能力を持つ者を意図的に作り出すことは、人間の育種品種改良に繋がる。
 優れた能力をを持つ人間を作り出すことは、生まれてくる人間を手段、道具と見なすことに繋がる。
 そしてそのような技術により生み出された人間と、通常の男女の関与によって生み出された人間との間に差別が生じる可能性がある。
 倫理的な観点とは大体このような内容だったと記憶している。しかし、追い詰められた人類は、種の存続を賭けて禁忌を破った。
 アベルと称する、幾つかの研究所が結託した組織。そこに属する科学者たちが、各々の持ち得る最高技術を投じて、十八年前に誕生したアベルの愛し子と呼ばれる子どもたちは、差別されて蔑まれるのではなく、この星の希望として大切に扱われて生きている。
 そう。生まれたときから特別な手厚い教育を受け、多くのシッターにより両親がいなくとも寂しい想いをすることのないよう大切に育てられてきた彼らの全員が、今から六年前の統一試験を突破して世界的な話題になったのは記憶に新しい。
「……俺からも釘を刺しておくよ。奴には、アサヒには気をつけるんだ。絶対に気を許してはならない」
 私の顔を見る事なく、前を向いたまま、トーヤは言う。
「何の不自由もなく育ってきて、みんなに大切にされていて。優しくて明るくて」
 少し癖のある赤毛、笑うと少し下がる眉、文句を言いながらも私のわがままによく付き合ってくれていた彼が。
「どうしてアサヒが」
 私の小さな慟哭は、通路の静かな機械音に飲み込まれて消えていった。